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烏鷺

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夕に綻ぶ 21

授乳の後横になったら眠ってしまったと順子は言った。
均は授乳と聞くと哺乳瓶が浮かぶのだが、見当たらない。
「母乳?」
「今のところ」 
「じゃ たくさん食べないと」と夕食の卓に誘う。
順子は小さく歓声を上げて席に着く。
彼女に教わった料理なのだが、自分で作るよりずっと美味しいとはしゃいだ。
食卓を挟んで食べれば、均にとってもそうだった。
会話は弾んだが、順子は均が告げた「事実」には触れようとしなかった。
打ち明けた後、変化した事は何もない。それ以上の事を探る会話も、よそよそしさも。
均は安堵と、定まらない自分とを感じていた。
立ち位置を確認したくもあり、そんな事とは無縁でいたいと思う自分もある。
どちらともつかない気持ちのままでは再び話題に乗せる事は出来ない。
おさらいのように助産婦や雑誌から仕入れた情報を話す順子の声を聞き、
実際にやってみると分からない事が出てくる料理の事などを質問する。
片づけを済ませ、帰り支度をする。順子は何度も礼を言う。そして玄関に見送る。
靴を履く前に声を掛けようと振り向いた。
順子は慌てて瞬きをした。一杯に見開いた瞳が潤んでいるのを見る。
均の心が揺れる。
「今夜……」 唇を噛み、仕切り直す。「帰るのが億劫だな」
「え?」
「ソファ貸して貰えるかな」
順子の表情が刹那輝き、だが直後にそれは歪んだ。
泣き出しそうな顔をして「違うのに」と言う。「そうじゃないのに」
「順……」 それまで呼んだ事がなかった名前が口から出る。
しかし順子は両手でその口を塞いだ。
「ありがとう」
均はその腕を下から握る。口の自由を取り戻し「どうして」と問う。
順子は均の身体を玄関に押し遣った。
「ひとりで 大丈夫。ひとりで やれるから……!」
「でも」
病院を出て初めての夜を赤子とふたりきりで過ごす事が不安なのではないのか。
均が帰った後に押し寄せる夜の寂寥が怖いのではないのか。
ドアが閉まった直後に泣き出すとさえ思えた。
だが順子は均の身体を押し続け、大丈夫と繰り返す。
靴に足を入れただけで外に追い出されて、均は閉じた扉を呆然と見つめた。
拒絶に傷つけられはしなかった。立ち尽くす自分よりも、扉の内側の順子の方が哀れである。
順子の頑なさは彼にではなく、彼女自身に向けられていた。
犬ならば、受け容れたのだろうか。均はふと思う。
開かないドアに背を向け、帰途につく。


一か月が過ぎた頃、順子はベビーカーを出した。一緒に外出したいと言った。
「最初だけね」 ラーメン店と同じで初回の敷居が高いらしい。
エレベーターの乗り降りや段差の対処など確認しながら、商店街へ向かう。
入り口から覗いて入れそうな飲食店を探す。軽く食事して買い物に回る。
均は時々視線を感じる。
子連れに対するものだと思ったが、もしかしたら順子を知る者ではないかと気づく。
正しくは順子と祥吾夫婦を。
傍から見たら均は寡婦宅に出入りする男に過ぎない。
均は急に不安になり順子を見る。順子はその視線の意味を解せず首を傾げる。
「ね これ試してみた?」と缶詰を手にして問う。
「こっちの方が使い勝手がいい気がする」と別の商品を指差す。
そういった男女連れはとても親しく映るだろう。
ふたりの距離は、互いに身体が触れない程度に近い。
人目にどう判じられるかなど順子にはどうでもいいようだった。
他愛もない会話を、ただ愉しんでいる。
均は順子に気づかれない程度にそっと身体を離す。ベビーカーに添えていた手も引いた。
ベビーカーの中で赤子はずっと大人しかった。まだそういう時期なのか、性格なのか。
順子はバッグから出したメモを確認し、「ミッション終了」と言った。
買った物は結構嵩んだ。その重さに均は己れを正当化する。
by officialstar | 2014-10-01 10:40 | 夕に綻ぶ