烏鷺

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カテゴリ:夕に綻ぶ( 41 )

夕に綻ぶ 42

部屋は白い布と花々で飾られ、壁寄りの中央に棺が置かれた。
そのために仕立てられたかのようなドレスに包まれ、香澄は眠っている。
最後に会ったのは何年前だったか。
均の記憶にあるよりその姿は若々しく、老いも病も感じさせない。
それがエンバーミングだった。
あまりにも安らかな顔であるがため、却って何の感慨も湧かず均はただ一瞥しただけであるが、
玲子は息を呑んだ後、暫しの間凝視していた。
「おきれいな方なのですね」 順子が呟く。
「最高の死化粧だわ」 玲子が言った。
無論エンバーミングは整形ではない。香澄は香澄のままで、実際に彼女は美しかった。
だがその遺体は美し過ぎた。
玲子は均を見る。均は肩を竦めて見せる。
元妻の凍りついた表情を、均は彼女が香澄の恋人であったがゆえと思う。
そうではないと知るに、その後数年を要する。
瑛太は悟と並んで棺の前に立った後、弟と一緒にその傍を離れた。
弟がテレビのある控室に誘えば迷いもせずついていくので、
彼にとって祖母と過ごした時間は既に過去のものなのだと、大人等は密かに安堵する。

ポットのお茶が数回取り替えられ、サンドイッチの器が花かごに置き換わり、
葬儀は終わった。
納骨先は香澄が指定していた。
何もかも、そこで完結するような、葬儀であった。
均が「終わったな」と玲子の横で言った。
玲子は黙っていた。


忌明けを待って相続手続きに入った。
法定相続人は均ひとりである。
順子が驚いたように「玲子さんは」と言い掛け、口を噤む。
今は自分が彼の妻であり、その妻にさえ相続権はない。
「大丈夫。後でちゃんと話をする。彼女にだって権利はあるさ」
均は順子が厭わない限り、手続き上で彼が知り得た事は全て伝えた。
母の仕事で世話になっていた弁護士や税理士と面談し、
指示通りに動けばいいだけの事であったが、判断は均がしなければならなかった。
資料を広げている時に、初めて順子が口を開いた。
「ここ」
「うん?」
「この家も そう?」
「ああ 母が住んでいた。……俺が育った家でもあるが」
「今は?」
「ずっと空き家だね。これも処分しないと」
「ここに」 順子は言った。
言ってからまだ決めかねているように、図面をめくる。そして言う。「住めない?」
「なんだって?」
「部屋数が多いわ。ここに私たちたちと玲子さんと 住めない?」
「なんだって」
「庭もある。改築か増築かして 玲子さんの方に水回り設備を足してもいい。
住所はどこだったかしら? あなたたちの会社からどれほどになる?」
今より遠くはなるが通勤圏内ではあった。
「しかし」
「勿論玲子さんに訊かなくてはね。でもきっと」
「いや」
「駄目ならいいの。訊いてみて? それとも私が」
玲子以前にまず自分だろうと均は思う。だがあまりに急な事で決められない。
最初強く否定したが、それはあり得ないという反射的反応で理由はない。
「だって ね? こんな不動産があって お金を払って借りているなんて変だわ。
今はまだいいけれど 子どもたちにも個室が必要になるわ。
それに 一緒に住めば私 玲子さんのお手伝いが出来る」
「子どもか」
「悟も瑛太も もうそんなに手が掛からないもの」
「一緒に育てるのか」
「そういう事になるかしら」
賃貸に住み続けるのが変だと彼女は言うが、
妻と元妻と同じ家に住む事こそ変ではないだろうか。
だがそれを理由に両断してしまう事は躊躇われた。
玲子と繋がっていたいと思ったのは事実なのだ。
「玲子に」 均は言った。「訊いてみよう。君からの提案だと言って」






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by officialstar | 2015-05-01 15:42 | 夕に綻ぶ

夕に綻ぶ 41

そしてその日は来た。

夕方病院から連絡が入った。
誰も間に合わなかった。
葬儀会社には病院が連絡した。
諸々の処理と手続きの後速やかに搬送が行われ、均は遠ざかる車を見送るだけだった。
すべて当人の希望だと伝えられた。
翌日に打ち合わせに来てくれと言われた。

いつもどおりに出社し、休暇の申請と挨拶を済ませ、葬儀会場へと向かう。
順子は子どもたちを送り出してから玲子と合流する。
真っ先にエンバーミングの事を確認された。
それが母の希望ならと同意を伝える。
「葬儀の日程はどうなさいますか?」
「特に遠方の親族とかいませんが」と言うのを、担当者は首を傾げて聞き、
それから手元の書類に目を落す。
「告別式は最小限に と覗っております」
「え?」
「いわゆる家族葬といいますか…… 身内だけで送って欲しいとの事です」
「それは 母が?」
「勿論」
均は呆然とする。担当は暫く待っていたが、やがて口を切る。
「何か不都合が?」
「いえ」 均は知らず俯いていた頭を上げる。「いえ。母がそれでいいのなら それで」
「では詳細を詰めさせて頂きます。先に会場をご覧になりますか」
腰を上げたところで順子たちが到着した。
そのまま部屋の外に出た。
エレベーターに向かいながら均は家族葬の件を伝える。
玲子もそれは聞かされていなかったようだ。均同様驚いた後で「それでいいなら」と言う。
順子は黙って頷いた。
こじんまりとした会場に案内され、説明を受ける。
祭壇のパンフレットを眺めながら玲子は「ではなんのための」と呟く。
それは均も思う。最後の虚勢かと思われたエンバーミングだが、弔問客が来ないのでは意味がない。
狭い部屋につりあう祭壇はせいぜいが花を一杯に飾るぐらいしかない。
「そうですね 無宗派で覗っておりますので そちらのタイプがよろしいでしょう」
「無宗派?」
「宗教儀式は要らないという事です」
「戒名は」 玲子が問う。
「それも要らないと」 手元のファイルを慌ただしく捲って答えた。
家族との意思疎通がないと知り、不安になったのだろう。
答えた後も何度も目を走らせている。
「らしいと言えばらしいわね」 玲子が、彼にも聞かせるように言った。
均も頷き、順子を見た。
順子は「ではそうなさったらいいわ」と言った。
「具体的に決めていきましょう」と控室に移った。
資料を置いたテーブルを囲む。
弔問客もなく宗教儀式もないのであれば、時間を何かで埋めなくてはならない。
通常は家族葬といっても親戚ぐらいは集まるものだし、読経など式進行もある。
だが彼らには何もなかった。
「音楽を流しましょう。お好きなジャンルはありますか」
均は玲子を見る。玲子は困ったように首を振る。
「ではクラッシックなど見繕っておきます。お食事はいかがいたしましょう」
「紅茶かコーヒーをポットで用意して貰えるかしら? サンドイッチと 何か甘いもの」
「ああ いいですね。アフタヌーンティーっぽく出来ないか訊いてみましょう。
そういう葬儀があってもいいと思いますよ 個人的に」
いいわね?と玲子は均を見る。均は順子を見る。順子は微かに笑う。
憂鬱が少し晴れ、無意識の緊張が解けた。
そこに母親の遺体があるというだけで、いつもの時間と変わらないのだ。
「あら じゃあ 着物は着なくていいのね」と順子が言った。
彼女もまた寛いだ気分になったのだろう、声が明るかった。
「そうだね 子どもたちの服も適当でいいね」 均は言った。
「お子様方がいらっしゃるのなら ジュースも要りますね」
人数の確認をして、打ち合わせは終わった。






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by officialstar | 2015-04-07 11:36 | 夕に綻ぶ

夕に綻ぶ 40

定時で仕事を終え、玲子と病院で待ち合わせた。
主治医が時間をとってくれた。話を聞く。
悪い方で安定している、と言った。回復は望めないが、今日明日という事はない。
均はただ聞く。目的は確認と、玲子に会う事だった。
廊下に出て「夕食でも」と言う。
玲子は「ごめんなさい 食欲ないの」と断る。
均が気まずげに口ごもるのを遮った。
「いいえ そうじゃないの。香澄が気掛かりとか そういう事じゃないの。
食べられるものが限られているのよ。安心した場所で少しずつ食べるのが いいの」
言い含めるように、均の目を見つめながら言う。それは彼女の癖だ。
分かっていて何を読み取ればいいのか、見つけられない。
短く挨拶をして別れた。
帰り道に酒肴になるようなものを見繕う。
子どもたちに突かせながら、グラスを傾けた。
「それって……」 均から玲子との会話を聞いた順子が言い掛ける。
「何?」
首を振り、子どもたちがテレビに向かうのを待った。
それから「つわりじゃないかしら」と言う。
「え」
「早く子どもが欲しいという話は前に聞いたわ」
「俺も」
頷くが、それはその事実を肯定しただけのものだ。
しかし順子はそれで妊娠そのものを決定させてしまった。 
「それじゃ無理はさせられない」 静かに、重く順子は言った。
均は玲子の口から同じ言葉を聞いた事を思い出した。
無理はきかない 無理はしたくない。
「やっぱり……か」 
それは均も望んだ事ではなかったか。
だが今この時という状況のせいか、祝福はなかった。
玲子が離れて行ってしまう。香澄という共通の存在もなくなれば、自分たちは他人だ。
黙り込んだ均の手に、順子は掌をそっと重ねた。
「大丈夫。私 頑張るから」
玲子の不在を恐れていたのは順子も同じだ。
「一緒に な」
ええ と順子は均の手を一度握って離し「お茶漬けでも?」と訊いた。

玲子にどう声をかけていいか分からず連絡出来ないでいた。
翌々日玲子からメールが入る。前日病院に寄ったが、相変わらずという報告だった。
均はありがとうと返信し、「身体を休めてくれ」と送った。
『分かった?』『順子が。ではおめでとうと言っていいのかな』『私が望んだ事だから』
ただ少し間が悪かっただけ。
それは均も同感であったが、あえて反対を言う。
『君に甘えてばかりいてはいけないということだ』
日曜日にと玲子は送ってきた。そちらに行く。それまで何も変化がなければ。
そこから「待つ」というだけの時間が過ぎた。
何かが湧きあがろうとしているのに、穏やかな水面を眺める日々。
為すべき何かを懸命に探そうとする焦りと、諦めに似た怠惰な気持ちがせめぎ合い、
その力があまりに拮抗しているがために、何も動かない。
せめてもと病院に寄り、ドアに掛かった面会謝絶の札を見て帰る。
日曜日玲子が来た。順子が体調を気遣う。
「軽い方だから」 食の好みが偏るだけだと玲子は言う。
その話題が途切れると、沈黙が漂う。
均が切り出した。
弔問客はどれくらいになるだろう?
交友は殆ど断ってしまっているから仕事関係が主になると玲子は答えた。
委託している事務所の方が詳しいだろう。親戚づきあいもない。
別れた夫、つまりは均の父親だが、その連絡先も分からない。
「それほど構える事はないと思う」 玲子は順子を見て言った。
均と順子は式も挙げていない。だからつまりそういう事なのだと。
しかし一方で二人の披露目の意味も出てくる。
自分は表には立たない。「子どもたちの世話は引き受けるわ」
「子どもたちには…… いつ」 妊娠を告げるか。
「今回の事が終わってからでいいでしょう」 玲子はまだ目立たない下腹部に手を当てた。
子どもたちはどう受け取るだろう。均は考える。
だがそれはその後の玲子次第なのだ。新しい家族が増えるのか、玲子を盗られてしまうのか。
「結婚は?」 均は訊いた。
「しないと言ったでしょう」
「妊娠の事は」 重ねて問う。くどいと自分でも思うが、訊かずにはいられなかった。
「言わない。これきりになるわ。将来親権の事など言い出されても面倒だもの」
そっと順子が割り込んだ。
「玲子さんには」 玲子の手に触れて言った。「私たちがいるわ」
玲子はその手を握り取る。絡む二人の指を、均は見つめた。
ひどく幻想的に、映る。







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by officialstar | 2015-03-21 10:26 | 夕に綻ぶ

夕に綻ぶ 39

順子には先に電話で話した。順子は「そう」と言っただけだった。
一度会社に戻り仕事のだんどりをつけてから帰ると告げる。
「気をつけて帰って来てくださいね」
何気ない日常の言葉をただ丁寧に繰り返す。均は「うん」と応えた。
その乾いた柔らかさが心地よかったのに、その時は物足りなく感じられた。
もっと何か繋いで欲しかった。
誰かに、話したい。誰かに、言って貰いたい。
面会謝絶は救いであった。もう迷う事も決める事も要らない。
母は結局逃げたのではないか? 息子から受けるかも知れない罵倒、或いは冷ややかな無視から。
彼女が息子をそう決めたのならそれは彼女の問題だ。
均には何もなかった。責める言葉もいたわる言葉も何も。母が決め、母が拒絶した。
もうどうしようもないのだ。もう何も出来ない。
何もしなくていい。
玲子にそれを言って欲しかったのだと気づく。玲子から得られなかったそれを順子に求めるのか?
何を話す。どこから。
帰宅した均を、順子はいつもどおりに迎える。子どもたちはリビングから追い払われていた。
「お疲れね? お食事でいいかしら」
食欲はなかったが、食べ始めたら空腹であった。喉を通る温もりが気持ちよかった。
「私 着物持っていないの。和装の方がいいわよね? 葬儀会社で借りられるかしら」
「食べたら調べるよ。他に知りたい事もあるし。玲子から 何か聞いている?」
「葬儀会社は決まっているという事は」
食べ終わり、湯呑みを手に立ち上がる。
「コーヒー いれましょうか」
「いや すぐ終わるよ。片づけが済んだら おいで。一緒に見よう」
自室に入りパソコンを開く。玲子から聞いた葬儀会社の名前を入れた。
サービス一覧からエンバーミングを選ぶ。
医師や玲子から聞いた以上の事は得られなかった。
新たに分かったのはエンバーマーの名前と経歴ぐらいだった。
学術用語も並んでいたが読み解く根気もない。
薬剤を使うなど処置を施し遺体をきれいな状態にする。医学的にも美観的にも。
聞き慣れない言葉だが外国では普通にあるらしい。
諦めて式場の所在地や、祭壇の種類など見始めた。順子の言葉を思い出し、貸衣装も探した。
ドアがノックされ、順子が入ってきた。その手にトレイがあるのを見て、均は立ち上がる。
受け取りながら「よかったのに」と言う。
「私も飲みたかったの。薄くしておいたから」
順子をパソコンの前に座らせた。
均の言葉に耳を傾けるものの、自分からページを開く事はしなかった。
「別に……私は」 順子は両手を膝に乗せた。「私への気遣いは要らないから
おふたりで決めて進めて頂戴。何をしたらいいのかだけ 言ってくれれば」
「実際のところ 俺にも分からないのさ」
一度経験している順子の方が余程、と思ったが口には出せなかった。
「心配しなくて業者が全部やってくれるよ。なによりまだ……」
均にそれ以上言わせまいとするように、順子は立ち上がった。
「明日 子どもたちの服を見て来ようと思うの。
悟は入学式のスーツでも間に合いそうだけれど 瑛太は適当なものがないから」
「頼んだよ」
「あとは…… 思いつかないわ。玲子さんに相談した方がいい?」
「明日会う つもりだ。ああ そうだ 夕食は分からないから支度は要らない」
玲子は頷いて部屋から出て行った。
均はパソコンに視線を落とし、そしてそれを消した。
緩衝材の上を歩いているように、現実との間に何か隙間があるような気がした。
母親が死に瀕しているという事と、母親が死ぬという事は同一の事実でありながら重ならない。
葬儀の事を考えながら、迎える現実に自分を投げ込めないでいた。
祭壇は舞台でしかない。
だがそれは特別な事ではないと思う。
仕事関係で参列した葬儀で、当事者たちはそれぞれの役割を演じているように映った。
自分も、演じればいい。母親を喪った息子を。








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by officialstar | 2015-02-28 16:42 | 夕に綻ぶ

夕に綻ぶ 38

玲子から連絡が入った。
香澄が肺炎で病院に搬送され、危ない状態であると。
「私は今から行くけど……?」
行くべきだろう。均は「都合がつき次第」と応えた。
病院へと向かう間、均はずっと考えた。
母親に会う。意識はあるのだろうか? 均を見るだろうか。
声をかける? 何を言ってもそらぞらしい。かといってぶつけるだけのものも、ない。
玲子との情事と、彼女から聞かされた結婚の経緯と、
さかのぼれば自分が母親の人形でしかなかった事。
だがそんな母親を非難するだけの材料が自分になかった。
どんな訣別をしたいのか自分で決めろと玲子は言った。
訣別の必要があるのだろうか。均にとって母親はもういないも同然の存在だ。
この世のどこかにいて会わないでいるのと、永遠に会えなくなるのと、何が違う。
母親に会う。会わない選択もある。「したくない事はしない」
いや。均は逃げようとする自分を懸命に引き止める。
たとえ言葉が見つからなくても、会うべきである。そこで何か見つかるかも知れない。
答えを出さないまま今日まで来てしまったが、これが最後の機会なのだ。
母親に会う。
病棟は分かっていた。それまでも何度か入院した病院だ。
建物に入り、エレベータに乗る。その間にも迷いは生じる。
会いたくない。会わなくても、いい。
部屋を確認しようと詰め所に向かったところで、玲子に呼び止められた。
緊張が少し緩んだ。彼女と一緒になら、病室に入る事はさほどに難しくないのではないか。
だが玲子の口から意外な言葉が洩れた。
「面会謝絶?」 均は驚いて訊き返す。
玲子は均の袖を引き、人けのない場所へ移動する。
「重態だからじゃ ないの。確かに深刻な状況だけれど面会謝絶はそのせいじゃない。
香澄が そう希望したから」
「何だって?」
「少し待てば医師から話が聞ける」
医師の話で分かった事は患者の病状だけだった。
熱は高いが、意識はある。時々混濁しつつも、刺激には反応する。
「そのまま昏睡状態に入った場合」 均は問う。
医師は先を引き受ける。「当人の意思です。看取りは要らない そして」
カルテに目を落とし、だが実際にはその必要はないのだろう、焦点を合わせないまま読み上げる。
「エンバーミングをご希望ですね」
「えん……?」
玲子が頷く。「ええ」
均は玲子を見る。玲子は「それは聞いてる。手配は香澄が自分でした」と短く言った。
医師は均にエンバーミングの説明をする。だが均には理解できない。
遺体防腐処置。
葬儀の都合上、たとえば死亡後数日内の葬儀が不可能である、患者が深刻な伝染病である、
或いは事故で損傷が激しいなどの理由で行う処置であるが、それ以外の場合日本では一般的ではない。
「あとは業者がやってくれるわ」 玲子は言う。医師に答えを求めようとする均を宥めるためだった。
「危篤というわけではありません」 医師は言った。「持ち直す可能性もゼロではない」
病室に入れない以上、帰宅して連絡を待てという事なのだろう。
立ち上がった玲子につられて均も腰を上げ、医師に礼をする。
医師は、気まずそうに小さく礼を返し、目を合わせようとしなかった。
面会謝絶は彼のせいではないが、責められているような気がするのだろう。
「どういう事だ?」
廊下に出るなり均は訊いた。
「説明のままよ。サービスに組み込んでいる葬儀会社があるのよ。そこに事前に申し込んだ。
だからお葬式もそこで出す事になるわ」
「葬儀……」
「今日は帰りましょう。明日 その葬儀会社のパンフレットを見せてあげる。それとも今夜調べる?」
玲子は社名を言った。
「順子さんとも相談しておいた方がいいわね。喪主はあなたで 順子さんはその妻だから」
「君は」
「手伝いはするわ。でも あまりあてにしないで頂戴。無理はきかない」
「待って もう少し 話したい」 均は玲子の腕を掴み、時計を見た。
だが玲子は腕に掛けられた均の手をそっと外す。
「疲れたの。帰りたいわ。言ったでしょう 無理したくないの」
押さえつけるように発せられたその言葉の意味を、均は拾えなかった。
突然の事態に混乱したまま玲子の後を追う。









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by officialstar | 2015-02-25 09:44 | 夕に綻ぶ

夕に綻ぶ 37

予定通りに日程をこなして帰宅すると、順子の熱は下がっていた。
子どもたちが買った土産で喜んだ後、大量の洗濯を始める。
日常に戻る。
均はそれきり坂下の夢を見なくなった。


秋の連休の遠出に玲子を誘ったが、約束があると断られた。
もしかしたら「父親候補」の男性とだろうかと均は思う。
順子にそれとなく探りを入れるが、何も聞いていないようだった。
四人の外出に不足は何もないのだが、どことなく納まりが悪い。
それは順子も感じたようだった。時々振り返っては、首を傾げて向き直る。
子ども一人に母親一人の図式も狂う。均の立ち位置が変わる。
俯瞰の足場を奪われて、瑛太の横に舞い降りる。
年齢からいっても性格からしても大人の手を煩わせるような子どもではない。
だがそれが却って均を引かせる。自然な話題が出てこない。
悟は次から次へとくだらない事を思いつき、それで周囲を笑わせたり怒らせたり呆れさせたりする。
均が瑛太を持て余していると見抜いてか、順子は悟を押し遣り瑛太を引き寄せた。
「この子の相手は体力が要るわ」と悟を示して言う。均は立ち上がり悟の後を追いかける。
帰り道「次は来てくれるかな」と悟が呟いた。玲子の事だ。
悟の、玲子の呼び方はくるくる変わった。最初は瑛太を真似て「お母さん」だった。
だが自分と玲子はその関係にないのだと知り、「にいママ」になり「おばちゃん」になり、
突然「玲子さん」になった。暫く、その大人びた響きを愉しんでいたようだが、
今度は順子を「お母さん」と呼び換え、玲子を「ママ」と呼ぶ。瑛太の逆になったのだ。
その擦れ違いを面白がっているようだった。
玲子はどう呼ばれても返事をする。一度からかうように「玲子!」と呼んだが、それにも応えた。
その「ママ」がいないと悟も物足りないらしい。
誰も呼応しないと「ねえ?」と悟は注意を引き「来るかな」と繰り返した。
瑛太は曖昧に首を振る。彼こそが一番に求めて然るべきなのだが、反応は薄い。
順子への気遣いなのかも知れない。順子は「お願いしておこうね」と言った。
「彼女にも 都合があるだろう」 均は言った。
頭には「父親候補」の存在があった。
彼女が別の男性と共に過ごしているかも知れないという事実に、
不思議と均は嫉妬を覚えない。
玲子が別の男に抱かれる事。その男の子どもを宿す事。
彼女を自分の領域に留めたいという思いはあっても、それとは別次元らしい。
むしろ彼女が早く目的を達成する事を望んだ。
自分だけが「家族」を手に入れた事に対する罪悪感だろうか。
男としての玲子に対する責任を誰かに肩代わりして欲しいのか。
「そうね」 順子はぽつんと言った。
その声が均の中に空洞を作った。寂しいという感情。置き去りにされる思い。
玲子が我が子を得るという事は、瑛太も悟も彼女にとって他人になるという事か。
結婚はしないと言ったが、子を産めば情も湧くかも知れない。父親が欲しくなるかも知れない。
たとえそうでなくても、自分の家族が一番になるだろう。均も順子も子どもたちも、二の次になる。
均はぞくりとし、その不安を払いたくて、共有して欲しくて、思わず口を開いていた。
「仮に」
「え?」
いや、と唇を噛む。
そんな形で自分の弱さを順子に曝け出したくはない。
家族内における妻として母としての順子に不足はないのだ。
「玲子さんが来なくなるなんて 嫌よ」 順子が言った。
順子が代弁してくれた事で均は楽になる。
覚悟はしておかなくては、と自分を諌める言葉を、順子に対してなら言えそうな気がする。
だが、口をついて出たのは「どうして」という問いだった。
「どうして? 玲子さんがいないなんて変だわ。玲子さんは私たちに必要でしょう」
必要? そんな筈はない。彼女の介在を計算に入れて始めた生活じゃない。
自分たちは自分たちだけでやっていける。父親と母親と子どもたち。
「ごめんなさい」 均の沈黙に、順子は言った。
順子は代弁しただけなのだ。謝ることはない。
しかし均はそれを伝えられなかった。





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by officialstar | 2015-02-21 17:45 | 夕に綻ぶ

夕に綻ぶ 36

それで脳に血が回ったのか、均は切り返す方法を見つけた。
「君は 順子が好きだと言った」
「ええ」 最初の「え」は勢いのまま素直な声だった。だが刹那後に警戒を帯びる。
歯切れの悪い「え」を受けて、均は続けた。
「彼女が凭れかかってきたら」
「そうね 嬉しいわ」
「髪を撫でる?」
「慰めを求めているようならば」
「肩を抱く?」
「寒そうならね」
「そのうちにキスをしたくなる」
「でも しない」
「相手が許しそうだと感じたら? それは分かるものだろう」
「順子さんの場合考えづらいけど」
「でも髪になら? 額になら? 頬になら」
酔いか妄想にか目を潤ませていた玲子が、急に冷える。「嫌ね あなた 悪趣味よ」
「何が」
「男の興味の対象にはなりたくないわ」
均は小さく咳払いをする。勿論そんな目的ではない。
坂下との事をなぞらえたかったのだ。
「情愛と性愛の境界を訊きたかったんだ。君と彼女の事は現実には考えたくないよ」
「衝動があっても不意打ちはしたくないわ。男女とは違うのよ」
「仮に相手が知っていたとしたら」
「ああ あなたが話すのね 離婚の理由を」
均は首を振る。「仮にだよ」
「だとしたら激情に流されるかも知れない。でもゆっくりだわ。私たちは殿方と違う」
「君ね」 言い掛けて声が掠れている事に気づく。
玲子は身振りでグラスを示す。均は一口含み、玲子もそうするのを見て、暫し黙る。
交互にグラスを傾けているようで、空になったのは均の方だった。
玲子がボトルを持ち上げた。
そしてくすくすと口元を覆う。
「何?」
「こと細やかに進行を訊いて来るかと思ったわ」
「まさか。……相手に拒絶が感じられたら 退く?」
答える代わりに肩を竦めた。
「もし 読み違えて 相手を泣かせる事になったら」
「後悔するでしょうね」
「もとには戻れないと分かったら」
眉を寄せる。質問の真意が分からないのだ。
「たとえば死にたくなる」
「ならない」 玲子はきっぱりと言った。

高原の空気に静寂も透明を増す。研ぎ澄まされた沈黙に、途切れた会話の先が刃物のように煌めいた。
金属的な音が脳裏に響く。
「ならない?」 均は訊いた。
「その瞬間の自分を消したいとは思うかも知れない。だからといって自分の存在ごと消そうとはしない。
いいえ 自分を殺しても過去は消えない。でも 死なないのは だから じゃない」
均はグラスについた水滴を指先で撫で、掌で覆う。
「私が愛した人は 私を拒絶したことできっと苦しむ。その程度の好意も感じられないのなら
最初から手を出すわけがない。肉体的には受け容れられなくても精神的な交流はあった筈だわ。
私は 私が死ぬことでその人を苦しめたくは ない」
初めて会った女性のように、均は玲子を見る。その実、見つめているのは玲子ではなかった。
均の表情に気づき、玲子は真剣さを紛らわせようとグラスを持ち上げた。
それは空だった。手を伸ばしたボトルも空になっていた。
「もう寝なきゃね」 玲子は言った。だがすぐには動かなかった。
手にしたボトルの首を握り直し、そして立ち上がった。
その数秒が、夫婦だった頃の二人の隙間を埋めた。
夫婦には戻れない。恋人にもなれない。だが友情ならば抱ける。家族愛を共有する事は出来る。
「ああ」と玲子の動きに合わせて顔を上げ、均は酔いを自覚した。
長い一日だった。疲れは心地よかったが、身体は重かった。
玲子はグラスなどキッチンに運び、二階に上がった。
均も床に入る。
坂下は生きているかも知れない。均は思う。
夢想だった抱擁に現実の厚みが加わる。力と体温を感じる。
そして? その先はやはり闇のままだ。
均は目を閉じる。安堵と不安が綯交ぜに彼を包む。それが甘い夢となる。
かつてない程に肉感的な、狂おしい快感。腰を突き上げた熱は夢の中で閃光となった。

夜が明け、半覚醒で無意識に下半身を探る。だが痕跡はなかった。
窓の外の気配に時間を測っていると、玲子が降りてきた。
やがてコーヒーの香りが漂い始める。








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by officialstar | 2015-02-17 11:35 | 夕に綻ぶ

夕に綻ぶ 35

最初のグラスをあけるまで、会話はなかった。
均は二杯目を注ぎながら、問う。
「子どもが欲しいと言っていなかったか」
「ええ。でもどうして」
「俺らにつきあってばかりじゃ その暇もないだろう」
玲子はグラスに口をつけ、舌の上に転がすように黙っている。
それを喉に送り、「そうでもないわ」と言う。「ちゃんと進行している」
「父親候補と という事か?」
「そうね」
「結婚するのか」
「しないわ」 玲子はグラスをテーブルに置いた。「たくらんでいる事も言わないの」
「妊娠しても黙っていると」」
「父親は要らない。ただ」
「ただ?」
ううんと玲子は首を振る。「どうして訊くの」
何故? 均は自問する。沈黙が重かっただけじゃない。
「君は……その 今でも」 言い掛けて、それが本当に知りたい事かどうか分からなくなった。
訊くまでもない事なのかも知れない。
「女性が好きよ。順子さんも好きよ」
「おい」
「手は出さない。今は 今の関係がいいの。彼女はねえ 性愛の対象じゃない。
私が産んで育てて その先に彼女と交わる時が来るならばいい とは思ってる。
交わるって生々しい意味じゃなくてよ? それも含まれるけれど もっと大きな意味よ。
でも彼女がそれに応じるかどうかは分からない」
順子は性的にはノーマルで、しかも祥吾を今でも愛している。
均は自分を納得させるように噛み締め、知らないうちに頷いていた。
玲子にはそれで全部伝わってしまう。
「私ね 順子さんが私に拘ったのは あなたと深い仲になる事を避けるためだと 最初思った」
「……ああ」 少し尻上がりに相槌を打つ。
そう感じた事もあった。そして実際にそうだろうとも思う。
頑なな空気は今でも残る。
「人は変わるわ 変わってもいいと思うわ。私だって香澄が最後の恋人だと信じた時もあった。
瑛太を間に 関係を変えながら それでも最後まで家族でいられると。
でもそうじゃなかった。でもそうだからといって間違ったわけじゃない。
今 別の誰かに惹かれたとしても その時の自分を恥じたり悔いたりはしない」
均は黙っている。玲子は一度窺うように彼を見たが、すぐに視線を外す。
「私がそう思えるのは その時の自分が真実自分だと信じられるから」
「順子がそうじゃないとでも」
「そんな気がする。順子さんは自分が祥吾さんへの気持ちを守り続けなければならないと
盲信に近く思い込んでいる。いいえ 自分に律している」
「マンションを出たのも そのため? その時に言っていたな……思い出にする?」
「そう。その時は 気持ちを切り替えて歩き出すという意味だと思っていた。
でも彼女の場合は違うのかも知れない。変質させないために箱にしまう。固定する」
「よく分からない」 均は正直に言う。玲子が何を言いたいのか、順子が何を考えているのか。
玲子は「そうでしょうね」と言う。分からせようとするつもりもないらしい。
所詮自分の憶測に過ぎない。
「不思議なのよ。一緒に暮らせば情は湧く。男と女ならばもっと距離が近くなってもいい筈。
あなたは男として悪くはない条件で 順子さんは可愛らしい女性だわ。
どうして何もないままでいられるの?」
突然矛先が自分に向いた。均は咄嗟に躱せない。
「それほどに順子さんのガードが堅い?」
「あ ああ」
自分たちが原因で均が女性に反応しなくなったとは思いもよらないのだろう。
これを機会に同性への感情と性愛の境界を問う道もあったのだが、踏み出せない。
「彼女をそういう対象には出来ないと言っただろう」
「人は変わっていいのよ?」
「好きだよ。家族だ。好ましい女性だ。でも 衝動はない」
「私の場合は私自身の抑制も手伝っている。今彼女を口説くわけにはいかない。
あなたも?」
「確かに今の空気を壊したくないとは思っている」
それ以上追及はされたくなかった。
グラスを傾ける。玲子がボトルを持ち上げたので、全部を飲み干した。
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by officialstar | 2015-02-12 17:24 | 夕に綻ぶ

夕に綻ぶ 34

母親は、介護の選択もあるが自由もきくマンションに入った。
時々玲子が会いに行く。
全く用もなしに行くわけもないので、均の方にも連絡は入る。
事務的なやりとりの後、均が訊けば玲子は母親の様子を伝える。
訊かなければ何も言わない。
検査を含めた入退院を繰り返しながら、少しずつ正常な生活を失っていくようだった。
均はその事実を自分のものとする責任があるのではないかと思う。
それは勿論「したくない事」ではあった。
「あなたが母親とどういう訣別をしたいか だけだわ」 玲子は言う。
母親の方に息子への執着は既にない。瑛太の事も話題に出さないらしい。
親が求めていないものを子の方に何の義務があろうか。
会う必然を決めるのは均自身だ。
最後に会ったのは、あの日だ。世界が一瞬で塗り替わった、あの日。母は他人のように美しかった。
均はそれ以前の、たとえば自分がまだ少年であった頃の、当たり前の母親を思い出そうとする。
外出がちな母であったが、それでも親子の時間はあった。
映像のように、或いは家族の肖像のような額縁の中に、凛とした母の姿は浮かぶ。
その手も髪も一切の感触はない。
訣別。このまま葬り去れば、乾いた紙が燃え尽きるように何も残らないのだろうか。
老い窶れ、もしかしたら彼の事など忘れてしまったかも知れない母と会う。
それで母の残像を塗り替えるか、否か。
答えは出ない。
出ないまま季節は廻り、悟は小学校に上がっていた。

夏の旅行の時だった。
直前に順子が熱を出した。
玲子の参加も決まっていた。均はキャンセルを考えたが、順子は反対した。
子どもたちが楽しみにしている。
宿泊先はコテージで連泊だった。往きの車中さえ我慢すれば順子も同行できる。
だが順子は自分は行かないと言う。どう考えてもこれは風邪の熱で、玲子に伝染したくない。
子どもたちがいなければゆっくり休めるし、留守の間に治せるだろう。
「しかし」と躊躇うのは、まるで自分に疾しさを認めるようなものだ。
「荷物はあらかたまとめてあるわ」 順子は寝室に旅行鞄がある事を告げる。
子どもたちの着替えは殆ど詰めてある。あとは遊びに使うものだが、それは瑛太でも分かる。
迷う間に前日から泊まる事になっていた玲子が来てしまう。
玲子は状況を知るや買物に出て、順子のために食事を作り置きをし一部を冷凍する。
行くことが当たり前のような振る舞いだった。
子どもたちは心配げに寝室を覗くが、順子は「静かにしててね」とすげなく追い返す。
玲子は「これが主婦の本当の骨休めよ」と陽気に言う。それで子どもたちは納得してしまう。
そうなれば旅行で盛り上がるだけだった。
玲子と子どもたちはリビングで寝る準備をする。気分は既にコテージだ。
自分の荷物を詰め終えても均はまだ落ち着かない。
玲子は「襲ったりなんかしないわよ 知ってるでしょう」と言う。
均は、たとえ自分に万が一の迷いが出たとしても、その確率すらもないに等しいのに、
玲子がそれに応じる可能性はそれ以上にないのだと、己れの躊躇いの無意味さに気づく。
そう。自分たちは知っている。確信できる。だが順子が迷わないのは何故だ。
躊躇はそこに生じているのだと均は思う。
奇妙な事に。順子が一切頓着していない事が、均を不安にする。
明朝、順子の容態を確認しようとする均を玲子は止めた。予定通り早くに家を出る。
昼前には玲子の携帯にメールが入り、早速スープを頂いているとあった。
コテージは二階と一階にそれぞれ寝室となる部屋があり、子どもたちは屋根裏のような二階を選ぶ。
初日の夕食は途中で材料を買い、バーベキューと決めていた。
順子が抜けた分負担は均に回って来たが、それは気にならない。
玲子と分担して切ったり焼いたり仕切ったりする。ビールを飲むぐらいの余裕もある。
子どもたちは夜中まで起きている権利を勝ち得たが、結局いつもより早く寝てしまった。
均と玲子は交替で風呂に入る。「ビール?」と均は問う。
「ワインにしましょう」と玲子は言った。「少し冷えすぎているけど いいよね」
チーズを切って添える。なんとなくグラスを合わせる。
「さっきメールがあったわ」
「順子?」
「また熱が上がったって。薬を飲んで寝る。起きたらまた連絡しますって」
「大丈夫かな」
答えず玲子は笑う。大丈夫に決まっていた。
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by officialstar | 2015-02-07 18:04 | 夕に綻ぶ

夕に綻ぶ 33

均と順子は『夫婦』でないままだ。この先それが変化するとも思えない。
友情と愛着を感じてはいたが、性的な兆しは一切ない。
それはむしろ坂下に対して顕れていた。
時々夢を見る。夢の中で抱き締められる。それはとても心地よい抱擁だった。
坂下のものか誰のものか分からない手に身体を触られる。
その記憶は恐らくは玲子や佐央理や、或いはもっと以前の女性によるものだろう。
しかしそこにいるのは坂下だ。
甘い倦怠のうちに目覚める。坂下がいればと思うそばに、いないからだと理解している自分がいる。
それでもその代わりを順子に求める事は決してない。
順子が均を祥吾の代わりにしようとはしないように。
「どうであれ 一般的とは言えないだろう?」 均は言う。
「そんな事どうでもいいわ」 誰にというわけじゃない。順子は呟く。「玲子さんがいてくれたら」
「楽しい?」
「私ずっと強くなれる気がする」
そう言って、それがまるで失言であったかのように、順子は話を打ち切る素振りをした。
引き止めたい気持ちは均にあった。だが追及するほどに理解も出来ていない。
順子は玲子に惹かれているのだろうか?
玲子の嗜好を考えると、それは危うい予感も含んでいたが、だが順子は知らない筈だ。
ただ純粋に憧れているのだろう。玲子は順子と真逆の女性だ。
強い。玲子は順子より強いと言えるのだろうか。順子とて決して弱いわけではない。
その面差しや雰囲気に惑わされるが、順子にはしっかりとした芯があるように見えた。
だからこそ、なのか。
「君は」
「え?」
均は呑み込む。君は僕を独り占めしたいとは思わない?


季節の行事や誕生日、そしてなぜか均と順子の結婚記念日にも、玲子は訪れ参加した。
夏か秋か冬のいずれかに旅行に行く。
玲子は子どもが欲しいと言っていたのに、その気配もない。
均は彼女の順子への接触を観察する。その視線に気づいた玲子は挑むように順子に触れ、笑う。
その真意は分からない。だが順子は均により玲子に寛いでいる風に見える。
友人とも違う。姉だろうか。
玲子もまた均に対しては「気遣い」であったものを優しさとして順子に注ぐ。
瑛太は知らない間に文字を覚え、数字を覚えた。時計を読み、お金を数える事も出来る。
悟が入園し、一年後瑛太は小学生となる。
優秀という点で瑛太の方が上だった。一度??れば悪い事もしない。問題もおこさない。
やんちゃな弟相手に時に喧嘩しながらも、よく面倒を見る。理想の家族が出来上がりつつある。
玲子の存在は不協和音にはならず、アクセントとして譜面に溶け込んでいた。

そんな中を一陣の風が吹き抜けた。
均の母親の不調だった。入院先の病院から連絡が入った。
諸々の手続きの為に均は出向かざるを得ない。
母親にどんな顔をして会えばいいのかと悩んだが、それは無用だった。
先に玲子が来ていた。
「香澄はあなたとは会いたくないそうよ」
「……」
「その点は評価してあげてもいいのではなくて?」
「え?」
どんな会話が交わされたか均は知らない。
医師から揃って話を聞く。夫婦のように並ぶ。医師は確認もせず話し出す。
すぐに命に関わる病状ではない。だが身体能力は損なわれる。
病院で出来る事だけのことはするが、その先の事はケースワーカに相談して欲しい。
同じ事を既に聞いていた香澄から、玲子は当人の希望を託されていた。
ケースワーカーとの打ち合わせは彼女が主になる。
均は必要な書類に署名するだけだった。
「順子さんには話したの?」
「ああ。自分に出来る事があれば言ってくれと 言っていた」
その時ほど均が順子の育った環境に感謝した事はなかった。
全ての親子が正常な関係にあるとは限らない、と彼女は知っている。
かくあれとは決して言わない。
だが一方で、どうすべきか示して欲しい気持ちもあった。
その均を見透かすように玲子は言う。
「したくない事は しなくていいのよ」
均の驚いた顔に、玲子は肩を竦め、言った。
「私にだって罪の意識ぐらい ある」
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by officialstar | 2015-02-05 14:44 | 夕に綻ぶ
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