烏鷺

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カテゴリ:星を問う( 22 )

星を問う 最終話



声も出せず、開きかけた口を閉じる事さえも忘れている君子の、
その手を取り、青木はその掌に外した指輪を置いた。
指を握らせて拳を両手で包む。
「夫婦のままじゃ 口説けない」 青木は言った。
数秒を要した。
君子は肺に残っていた空気で「え?」と問い、そして息を吸う。「ええ?」
「交際を申し込みたい」
今度もまた口を閉じる事が出来ない。
君子は馬鹿みたいに青木の顔を見るばかりだ。
演出でもなかったらしい。青木は困惑気味にその君子を見返す。
君子は笑おうとし、それも叶わず、唇の端を引きつらせる。
徐々に怒りが込み上げてくる。
青木の手から自分の拳を引き抜くと、それで相手の胸を叩いた。
驚かせた罰である。
青木が咳き込むのを見て、溜飲を下げる。
「私は夫婦のままでも構わない。あなたは恋愛がしたいの?」
「口説けと言われたんだ」 乾いた咳をして胸を押さえて恨めしげに君子を見る。
「そう。折角だから聞いておきたい気もするけど」
しかし今何を言われても素直になれない。
自分に先手をとらせてくれていたら、
もしかしたら少しはロマンティックな気分になれたかも知れないのに。
掌を開く。指輪を見つめ、ここからやり直そうと思う。
「家に帰って 私の指輪を出すわ。もう一度私の指にはめて頂戴。でも」
「でも?」
「あなたは永遠の愛を誓えるの? 愛情は変わらないと信じられたの」
「いや」 青木は快活に言った。
君子の頭に手を置き、子供にするように髪をくしゃくしゃに掻き回した。
愛しさに溢れる行動だったが、君子には伝わらない。
「変わるんだ。変わっていいんだ。愛情は何の束縛もない」
耐えかねて君子は首を振って青木の手から逃れる。
乱れた前髪の間から相手を睨みつける。
「男の論理なら怒るよ」
青木は言う。「違う君に浮気する。君を一人ずつ好きになる」
「はい?」
「知らない君がいる。10年後の君がいる。俺はそのひとつひとつを順に愛していくだけだ。
今の愛を永遠に貫く自信はない。なくたっていい。変わらない愛なんてない」
「愛?」 口にするとなんと陳腐な言葉だ。「では私を愛しているのね?」
青木も同じように感じたのだろう。開きかけた口を結び、再び手を伸ばした。
俯き加減に君子は目を閉じる。髪はどうせもうぐちゃぐちゃだ。
だが青木の手は君子の体を抱き締めていた。
刹那の硬直の後、君子もまた両手を青木の背に回す。
触れたくて触れたくて、ずっと我慢してきた身体。
感じたくて感じたくて、至近距離の向こうに探ってきた体温。
互いに貪るように齧りつく。

身体を離した青木に、君子は笑った。
「男って不便ね」
「素直だと言って欲しい」
「子供みたいに?」
「男はいつでも男になれるのだと 何かで読んだ。だから子供でいていい」
嘘だ。君子は思う。青木は誰よりも大人だ。
君子にハンカチを差し出した、あの時からずっと。
「子供……」 君子は呟く。青木に言われた言葉を思い出した。
自分の遺伝子が好きではない。自分の子供を欲しいとは思わない。
君子はそれを口に出す。青木は改めて肯定する。
「だから」 君子を見る。まっすぐに。
気恥ずかしさに君子は目を逸らしたくなる。
「好きな女の 子供がいいんだ。俺の子じゃなく 君の子供が欲しい」
「残念ね」 少し切なく笑い返す。「私のも 頼れるような遺伝子じゃないわ」
育ての母が本当に好きなんだなと君子は思った。
その思いはどんな遺伝子より確かで、素敵なものなのに。
再び坂道を登り出す。
コースを逆に歩いている。
裏山を超えて、スタート地点を目指す。
まるで自分たちの結婚のようだ。一番高い場所で足を止めて、君子は空を見上げた。
星は見えない。
だが自分は自分の星に巡り会えた。
そのきっかけをくれた佳苗と出会ったのは、この丘だ。

「ご両親に会いに行かなくてはね」 君子は言った。
いいや。会いたい。会ってみたい。青木を育てた女性に。そしてその夫に。
彼女が青木を育んだように自分も悠斗を包めたらいい。
それこそが自分と佳苗の星なのかも知れない。
高台から学園の方を振り返る。




星を問う  完





きっかけを下さった レモンの木 さんに
そして読んで下さったすべての方に
感謝を込めて
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by officialstar | 2012-08-09 10:40 | 星を問う

星を問う 21

紺というより青に近いセーラーの、少女たちが行き交う。
君子たちが入学した頃はそうでもなかったが、
今では進学校となった学園の生徒たちの雰囲気は、かつてとどこか違う。
星が丘駅のホームで青木と並び、君子は学生時代の匂いを嗅いでいた。
「セーラーってやっぱりいいなあ」と口元を綻ばせる青木に軽く肘鉄を入れ、
「お嬢様学校じゃ ないのよ 今は」と半ば自分に言う。
柔らかな、あの優しさは感じられない。それは感傷か。
少女たちはごく普通に現代の高校生だった。
あの頃も傍目には同じだったかも知れないが、
君子にとって確かにどこか特別な、どこにも属さない集団であった。
一団をやり過ごした後に二人は歩き始める。
階段を上がって改札に出る。そこを通り、また階段を上がる。
幹線道路である通りの喧騒が流れ込む。
市内で一番最初に走った地下鉄線だから、駅も古い。
ちんまりとした出口から外に出る。
「左」と君子は短く言った。

星が丘に行こうと言い出したのは青木だった。
悠斗のいない平日にわざわざ休みを取っての外出だ。
園が休みでも小山内に任せて出かけてしまえばよいのだが、
このところ悠斗は青木に嫉妬するようになった。
青木と君子がふたりで話していたりすると、真ん中に割り込んで来る。
ふたりだけで外出したいなどと言ったら拗ねるに違いない。
幼児特有の直感で君子の心情を感じ取っているのかも知れなかった。
青木への想いを意識して季節が移っても、しかし表面的には何も変化はなかった。
黙りこくる事の増えた小山内の前で、二人はずっと偽りの夫婦のままだった。
青木に触れたいという衝動は日ごとに増すが、
君子はそれを抑えていた。
小山内への遠慮も多少はあったが、
一番は均衡を崩す勇気を君子が出せないでいる事だった。
想いが砕かれたら、気まずいだけの日々が残る。
受け止められたとしても、惰性に似た平穏な空気は消えるだろう。
「ああ 坂 だなあ」 足を止めて青木が左を見上げた。
大学に続く上り坂だった。
君子はその建物を指さし説明する。
そしてまた歩き出す。まばらに制服姿の生徒が行く。
「小高い丘だから 星がよく見える?」
「といったところかしらね。学校のあたりは桜ヶ丘」
中高の門に続く坂道が桜並木になっている。
だが地名は、だからというわけではなかろう。
門には守衛がいて、そこから先は入れない。
坂を上るまでもないだろうと、君子は通りから学校を見上げた。
傍らを、反対側から来た生徒が通り過ぎていく。
君子らの頃には重苦しかったセーラーもスカートの丈のせいか、幾らか軽い。
その軽さに君子は反発を覚える。
「批判的な顔は およし。おばさん臭いよ」 
君子はぷいと横を見る。
「あっちから裏山に行ける。墓地と平和公園。広場もあったかしらね」
「よく行ったの?」
「そうでもない。ああ 佳苗と初めて同じクラスになった時 親睦会で行った。
あとはマラソン大会の思い出しかない」
「コース? 教えてよ」
君子は、青木の驚いた顔を想像して密かに笑う。
青木の中に依然としてある「お嬢様学校」の、そのマラソンコース。
そんなものはどこにもない。
あるのは不整備な山道だけだ。

「何か話して」 青木が言う。
「息を切らしてて 何言ってるの」 
「や きついね これは」
息を弾ませて青木は汗を拭う。片手で傍らの木に凭れた。
その薬指の鈍い光を君子は見る。
悠斗の気配のない木々の間で、日常から切り離された空間にふたりはいた。
相変わらず冴えない私服の青木の、既に見慣れた横顔や肩や腕が、
室内の装飾のような夫のものから、まぶしい異性の肉体に変容する。
形のいい爪と、女性にはない乾いた直線の美を描く指。
そこに存在を示す指輪の意味を、君子は強く感じる。
この人は今私のものだ。
そして自分はその事実を完全な真実に変えたいと願う。
私も それ はめようかしら。君子は言葉を準備した。
好きだと告げよう。子供のためじゃなく抱いて欲しい。
出会ってから今日までの、青木が見せた数々の魅力が脳裏を過る。
それはいつしか君子の好みを塗り替えていた。
青木の全部が君子の理想だった。
佳苗も悠斗もどうでもいい。自分の為に私はこの人が欲しい。
君子は口を開く。
だが、青木の方がわずかに早かった。

君子が見ていた指輪を、右手の指で回し、言った。
「別れよう」
世界が突然君子から飛び去った。




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by officialstar | 2012-08-08 14:35 | 星を問う

星を問う 20


ソファに脚を投げ出し、腹の上でグラスを持っている。
小山内はそのグラスの存在も忘れているようだった。
「結局俺は負けた事になるのか」
珍しく自分はつきあいの一杯でやめた青木が「何に」と問う。
「君子に」
「勝った負けたの話なのか?」
「全部吐き出させられた」
「たとえば?」
小山内は視線を青木から一番遠いところに飛ばす。
「俺にも言えないような事を?」
「そうだ」
「君子から聞いてもいいか」
「駄目だ」
「それは」 青木はため息を吐く。「俺の負けって事か」
友人を眺めて小山内は諦観に似た笑いを洩らす。
「いいよ。聞けよ。話せよ。お前たちは夫婦なんだ」
「まだ夫婦じゃない」
小山内は「まだ」と言う。「これからは?」
「子作りのための結婚なんて真っ平だ。家庭は欲しいが 俺は理想の夫婦が知りたいんだ」
「君子を好きではない?」
青木は背筋を立てる。幾許かの驚きを込め「好きだよ?」と言う。
「いつから」
「最初から」
今度は小山内が驚きを見せる。
その表情に青木は更に意外そうに言う。「だって そうだろ?」
「何が」
「入籍までして 一緒に暮らそうと言うんだぜ。俺は君子をもっと知りたかったし
知ってよかったと今では思う。興味本位だった好意が 愛情らしきものに変化してきた。
あれは面白い生き物だよな?」
「いや?」
「お前を負かしたんだ」
小山内は肩を竦めようとしてグラスを思い出す。口に運ぶ。
青木は立ち上がって氷をトングでつまみ、小山内のグラスに入れてやった。
「うまくやれ」
「どうかな」
「暫く二階は好きに使っていいぞ。寝室はキッチンの上あたりだから心配するな」
「なわとびでもするか」
小山内は酒を含み、飲み込む。「お前たちは いい感じに見えたぞ?」
「いい関係だとは思う。でも恋愛対象ではないらしい」
「同時に始まる恋愛はない。お前に口説かれたら 堕ちるさ」
「他人事は 気楽だな」
小山内はグラスに視線を落とした。手首を返し、渦を見ている。
飲み干して「ああ 気楽だ。何より未来があって いい」と言った。
「お前は」
「あ?」
青木は迷う。稀なそのためらいを小山内は黙って眺めている。
発せられる言葉も、それに対する自分の答えも、両方知っていた。
青木はそれを友人の目の中に見つける。
「しかし お前はひどく曖昧だった」 青木は言う。
「佳苗が曖昧だったのだ」 首を振る。「もう いい。君子に聞け」


小山内との会話の内容を知りたいと青木は言った。
君子には巧く伝える自信がない。
佳苗からの手紙を取り出した。
青木はそれを君子の顔と交互に眺めながら、広げた。
目が動く。途中で君子は目を逸らした。佳苗に心の中で謝る。
しかし誰かに言って欲しかったのだ。誰かに確かめたかった。
青木が読み終わると同時に君子は問う。「遺書だと 思う?」
「どうして」 青木は優しく言う。「最後にまた会おうってあるじゃないか」
そう。それは自分でも思った。
「少なくとも これを書いている間は そんなつもりはなかった」
青木は丁寧に畳んで君子に返した。
一度で全部を把握したとも思えないが、散文的な文章は雰囲気だけで充分だったのかも知れない。
「どうして彼女は幸せでなかったのだろう。篠原恵の存在だろうか?
でもそれならば文面に滲み出るはずの 怒りや そういう感情が ここには見られない。
ただ虚しくて 空回りばかりだ。自分でもそれが分かっていて 誰も責められないでいる。
そんな自分に嫌気がさして 昔を懐かしんでいたのだろうな ずっと。
還りたいと言えば 君だけは応じてくれると思ったのか」
君子は、手紙を封筒に戻すとわざわざ元の場所に置きに行った。
反芻の時間が欲しかった。青木の指摘は尤もで、君子は全部を飲み込むしかなかった。
戻って君子は佳苗の母との会話から始める。
小山内にそれを知らせるかどうかも、青木に相談したかった。
「そんな くだらない」 青木は言い掛け、唇を噛んだ。
君子の批判の眼差しを受けても、なお「そんなくだらないことで」と繰り返す。
だが三度目には憐れみがそこに混ざる。
「だから なのか? だから彼女はいつも夫に負い目を抱き 懸命に尽くし だが心は添わず?」
「言えなかった。小山内さんには言えない。もう今更だもの。
でも小山内さんに どう佳苗の気持ちを伝えたらいいか分からない」
最後に小山内の口から引き出した、小山内の、妻への愛情を君子は語る。
青木は何も言わず聞いている。
君子が話し終え、促すまで青木は黙っていた。
「言えばいい」 青木は言う。「全部教えてやれ。後悔に泣き暮れても それは奴の責任だ。
好きなら心を抉じ開ければよかったんだ。
佳苗さんがそれを打ち明けるまで扉を叩き続ければよかったんだ。
今になって そんな告白 何になる? 壊せない壁なんてあるものか」
「でも 佳苗はもういないのよ」
「だが 彼は生きてる。これから先も生きていかなくてはならない。
ここから教訓を引き出さなければ それこそ何のために佳苗さんと結婚したか 分からない。
佳苗さんが噛んだ苦草を 奴も味わうべきなんだ。それが逃げた罰だろう」
その激しさに君子は驚愕と共に感銘を受けた。
君子は思わず青木に触れていた。
その服を握り、その顔を間近に見上げる。

この人が好きだ、と思う。




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by officialstar | 2012-08-07 13:29 | 星を問う

星を問う 19



「疲れさせてしまったね」 小山内が言った。
君子は応える。「終わってやれやれだわね」
「そうじゃなく」 小山内は遮る。
続く沈黙に君子は察した。佳苗の母の相手をほとんど引き受けていた。
これまで感じた事はなかったが、
小山内が彼女が苦手だと言うのがはっきりと分かった。
殆ど決定的でもあった。
「何か 嫌な話を聞かされたのではないか」
離れた場所から君子の、もしくは二人の様子を窺っていたのだ。
君子の狼狽や怒りを察して傍に来たのだろう。
小山内の表情を窺う。会話の内容を知りたいというよりは、
君子の心労を気遣っているように見えた。
全部を伝える決断はまだ出来ていない。
しかしこれを逃しては機会は巡ってこない気もする。
君子は問う。「佳苗とは職場で知り合っての 恋愛結婚だよね」
「そうだが」
「どうして 佳苗と結婚したの?」
小山内は苦笑した。
「全然不思議じゃないだろう。当時既に両親は他界していて 何の束縛もなかった。
俺は俺の気持ちだけで伴侶を選べたんだ。
たとえそうでなくても 佳苗の条件は決して悪くはなかった。違うか?」
違わない。
「佳苗が好きだった?」
「ほかに何がある」
「佳苗を愛していた?」
小山内は一度口を開き、閉じた。
そして仕切り直す。「俺が訊きたい。佳苗は俺を愛していたのだろうか?」
君子は咄嗟に答えられない。
小山内が佳苗を愛していたかどうかが問題であって、
君子にとって佳苗の気持ちは意識の外にあった。
小山内は畳み掛ける。
「どれくらいの頻度で佳苗と連絡をとっていた? 何を聞いた? どこまで知っている?
俺が初めて誘った日を覚えているか? 君は佳苗の一番の ひとりきりの親友だろう」
君子は記憶に錘を垂らす。深く深く沈めていく。
結婚が決まったと知らされた。その前には?
「女同士 いちいち報告し合うのではないのか? 手に触れた事 接吻をした事 夜の事。
佳苗はそれをどう伝えていた。俺の事をどう話していた? 俺は知りたい。
俺こそが知りたい。彼女は俺に恋していたのか?」
「でもそれは あなたの見てきた事だわ」
「俺は信じていた。盲信だ。断られはしないだろうと思ってはいても
結婚の申し込みを受け容れられた時には有頂天になった。それが答えだと信じていた。
ああ 欲しいなら言ってやるさ 俺は確かに佳苗を愛していた」
追いつめて、追いつめられたのは君子の方だった。
君子には何もなかった。
結婚の報告の時、はしゃいだのは君子だ。経過は何も知らされていない。
会わないでいた一年の間に進行していた。その間電話の一本もなかっただろうか。
君子は答えられない。
そしてそれこそが全てだった。
小山内は顔を背ける。
いいや。君子は道を探す。佳苗がそれを好まなかっただけかも知れない。
女学生じゃあるまいし。恋だのろけだと。
そして突然思い出す。
「待って」 小山内の腕に触れる。「違う 待って。会った。就職して二年目?
佳苗に 色っぽい話はないのと振ったら 気になる人がいるって言った!
私が知る限り 一番女らしく 幸せそうに そう言った! いい人なの いい男だよ って」
「では そいつを諦めたという事か」
「違う!」 君子は声を振り絞るった。「あなた だわ。結婚するって聞いた時 私確かめたもの。
あの人なのって訊いた。多分それから二年くらい過ぎてたけど でも そうだって佳苗言った!」
熱を込め夢中になって喋る。
忘れていた事を思い出せば自分にとっても初見のドラマだ。
「だから佳苗はあなたに恋をしていたわ。憧れていた人に誘われて 請われて」
「では どうして」
小山内は君子の興奮に水を掛けた。
「君はそれをすぐに思い出さなかったのだろう」
忘れていた。忘れさせられていた。
佳苗はあまりに淡々としていた。結婚までの道程を語った事はあるが、
恋愛期間の話は殆どなかった。小山内という人間への気持ちを顕わにした事もなかった。
結婚前も。結婚してからも。
「全部が順調で 華々しさもなかった。だが俺は人生の至福の時だと噛み締めていた。
佳苗が笑い返すから それが彼女の気持ちだと浮かれていた。
しかし半年もして冷静になると 見えてくる。
結婚して 一緒に暮らして 物理的な壁が消えた後に それでも俺は越せない壁を感じ続けた。
佳苗は仕事をやめて 家で俺を待つ。俺だけの佳苗になった。
だがどれだけ夜を重ねても 佳苗は指の先の ほんのわずか離れたところにいるようだった。
子供が出来れば変わる 時間がふたりを夫婦にしていく そう考えた。
そして悠斗が生まれて ……それからの事は話しただろう」
小山内は苦々しく自嘲する。
「佳苗が望んだものは何だったのだ? 佳苗は誰を見ていた?
それが自分でないと気づくのが嫌で俺は逃げた」
「あなたしかいない」 君子は呻く。
佳苗のその恋は少女の恋だ。
記憶はより鮮明になり、その中で佳苗は処女のはにかみを見せる。
気になる人がいるの。素敵な人よ。

君子は呆然とする。
片恋の間は成就を願えばいい。
だが佳苗にとって成就のその先は破局だった。
口を手で覆う。
人生で一番幸福な時を!
恋した相手に望まれて結婚して、それ以上何があるだろう。
その頂点で谷底を見ていたのか。
請われた瞬間に佳苗は愛することをやめてしまったのかも知れない。
青木が言っていた。むしろ佳苗の方にうしろめたさを感じていたと。
君子は囁くように言った。
「あなたは 佳苗を愛していた……」
自尊を呑み込んで小山内は言う。「誰よりも」



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by officialstar | 2012-08-04 16:00 | 星を問う

星を問う 18

佳苗の母親が来た。一周忌である。
君子はしばらく接待で忙しく、話すことが出来なかったが
食事の席で隣り合った。
雑談で過ごした後、佳苗の母は体を少し倒して、
「あの人は来ていないのね」と言った。
「あの人って?」
「忌明けの時に ほら」
篠原惠の事だと思いつく。君子はもう思い出す事も稀だった。
しかし佳苗の母は彼女の事は何も知らない筈である。
確かにあの場の采配ぶりは女主人然としていて不快ではあったが、
今となってはどうでもよかった。
「篠原さんの事かしら? 今回は私がいたから頼みませんでした」 
「あら そう」 佳苗の母はもう一度周囲を見回し、声を潜めた。
その素振りが妙に気に障る。
「あの人 あれ 卓さんのいい人でしょう」
「え?」
「小山内さんの浮気相手」
君子は動揺を隠した。目で小山内と青木の位置を確認する。
「どうして? 彼女は佳苗の後輩でしょう。大学と 職場の。
青木とも面識があったから手伝いを頼んだんじゃ……」
佳苗の母は納得しない。いや。浮気相手という事で納得済みなのであった。
首を振り「いいの」と言う。
「何が」
「佳苗があんなだから 夫が愛人を作ったとしても諦めるしかないの」
「どういう事ですか」 知らず声が大きくなる。
君子は視線を感じて俯いた。気の抜けたビールのコップを手に、口を湿らせる。
どう訊けばいいのか考えを巡らせているうちに、佳苗の母の方から喋り出した。
「子供のころから喘息やら皮膚炎やら。あんなでは夜のお務めも満足頂けないと心配していたわ。
相手の人に浮気されても仕方がないでしょう。肌も若いのにきれいじゃないし」
「そんな事」 君子は抗議しかけ、それを呑み込んだ。
背中の一部以外佳苗の肌は特に荒れているわけでもなく、
たとえそうでもそれを補う魅力や特技はあった。
だがもうそんな事はどうでもよかった。それは自分や、何より小山内が知っている。
今更この母親の見解を訂正させたところで意味はない。
それよりも君子の感情をざわつかせる疑念が抑えられない。
「もしかして それを佳苗に言ったりは」
「したわよ」 さらりと答えた。「高校生ぐらいの時かしらね。結婚前にも言ったかしらね。
卓さんにも重々お詫びもしておいたわ。至らない子だからと」
頭に血が上り、言葉が浮かんでこない。
佳苗の母は悪びれず、どころか自慢げに滔々と話す。
もう何も入ってはこない。怒りは血流となり頭痛を呼ぶ。
君子は座卓に手をついて立ち上がろうとし、それを思い留まる。
「もし そうだとして 仮に あの女性と小山内さんが浮気をしていたとして
……佳苗は気づいていたのでしょうか」
「さあ」 母親は料理を口に運び、批判めいた感想を洩らす。
「佳苗が知っていたならば あの事故はもしかして」
「あれは事故」 佳苗の母はきっぱりと言う。
箸を置き、君子に顔を向ける。「事故だと最初に言ったでしょう。事故だわ。
夫の浮気ぐらいで自殺なんてしていたら 世の中の女の半数はいなくなる」
「そんな……」
佳苗の母は再び箸を取るが、左手に受けたところで動きを止め、料理の皿を見据えた。
「正妻は子供を産んで育てていればよし。男の子を産めば安泰。
女の一人や二人 慌てる事などない。佳苗にはそう教えてあります」
君子は唖然とする。いつの時代の話か。
いや。
言葉にこそしないが、現代の女たちもそうやって事実を呑み込んでいる。
夫の浮気に泣いた友人が他にいないわけではない。
彼女らは家庭を維持することで自分を守り抜いた。
それは即ち、時代錯誤に聞こえる、この佳苗の母の発言のまま。
……だが。
気配に、顔を横に向けると、式服に包まれた脚があった。
見上げた目に、ビール瓶を持った手が映る。
小山内は佳苗の母のグラスにそれを傾け、君子に目配せをする。
無意識に頷いて君子は生温くなったビールを乾した。
注がれたそれは冷たく喉を潤した。沸騰しそうな頭も冷えた。
小山内は君子の肩を軽く叩いて隣の卓に移った。
誰もそんな思いを抱えて結婚はしない。
祝福された友人たちの笑顔の中にそんな陰りはなかった。
君子は結婚式の佳苗を思い出す。
悠斗の出産を祝いに訪問した時の彼女を思い出す。
弾けるように、或いは誇らしげに笑う友人たちと比べ、そのつつましやかだった事。
それは独身の君子への気遣いだとばかり思っていた。
のろけも苦労話も全部呑み込んで、佳苗は学生時代と同じに君子に接しようとした。
あれは君子だけのためではなかったのか。


切なくて。

何の不自由もない日々に、どうして虚しくなるのでしょう。
自分をただ自分にしておくことが何故こんなに難しいのかしら。
学園の中では私はいつも私だけでいられた。

あのころに戻りたい。
あの星が丘の駅から もう一度歩きたい。


読経の間零れなかった涙が込み上げてくる。



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by officialstar | 2012-08-02 17:43 | 星を問う

星を問う 17

一周忌は忌明け法要と同じ、自宅での読経と料亭での食事だ。
それまで小山内は仏壇のある和室で寝ていたが、法事を機会に奥の洋間に移る。
小山内自身で少しずつ片づけ、ベッドも入れた。
君子は二階のシングルを降ろす事を提案したが、
小山内は、いつか寝室が本当の寝室になるかも知れないからと、
それを却下した。
君子は小山内が家具カタログをめくっているのを眺めているうちに、
その言葉を理解した。訂正するには時機を逸している。
自分たちがこの婚姻を解消してこの家を離れたら、
小山内が再婚してあの部屋を寝室に使う事もあるかも知れない。
そう。そうに違いない。
相手が篠原惠でないのならそれもいいだろう。
カーテンを換え、箪笥を入れて小山内の私室が出来上がる。
和室は仏間となる。
掃除しているようで生活感漂うリビングを君子は片づけた。
悠斗の玩具を運び、自分が持ち込んだ雑誌や青木の本を二階に上げる。
家具を磨く。拭けばきれいになるという事は汚れはせいぜいが一年分という事だ。
親戚の誰かが入るかも知れないのでキッチンも掃除した。
トイレと洗面所は当日。
茶器を揃える。和菓子を注文する。
「こんなところでいいかしら」
「忌明けもそんなんだっただろう」 青木は言う。
今回はその時と違って女手があるのだから同じにはならない。
自分の落ち度は佳苗の評価に及ぶと、君子は真剣に考える。

すっきりとした続き間を見て、小山内は君子を労った。
「二階も 好きにして整理してくれて構わない」
それは以前にも言われた。
「運び込んだ服は持ち帰ったりはしないのだろう。増えていくばかりだ。
佳苗のものを少しずつ減らしていけば いい」
自分はいつまでここに住むつもりなのだろう。君子は思う。
悠斗が母親を必要としなくなるまで? 或いは本当の母代りを迎えるまで。
何年先か分からないが、必ずその日は来る。
最初の状態のまま返すべきではないかと思う。
黙っている君子に、小山内は内緒ごとのように響きのない声で言う。
「何か 出てこないか」
「何かって」
「佳苗の」 言い淀むのは、それが日記の類を差すからだろう。
台所の棚から家計簿は出てきた。メモも書き込んである。
小山内が言うのは無論それではない。
「特に 何も」 君子は言った。探しても無駄だ。きっと。
書く事で紛らわす事が出来たのなら、あの手紙を送っては来なかった。
あれだけが佳苗の本心とも言える。
だがそれを受け取った君子にすらも、佳苗の気持ちの全部は理解できない。
ここに来てますます分からなくなった。
小山内は君子の想定よりずっと家庭的だ。悠斗は可愛い。
家計を預かってみて、そこに不満が生じようがない事も分かった。
この中で何が足りなくて、何が切なかったのか。
手紙の存在を小山内に教えるべきだと思う一方、
君子にだけ訴えた佳苗を裏切ってはいけないとも思う。
自分の知らない事がまだどこかにある。小山内の中にも。
「急がない が」 小山内は言った。そして遠くを見て呟く。「もう急ぐ必要はない」
無限にあるわけではない。君子は思う。
自分はいつかはここを去らなければならない。
その時を思って、君子は突然身の内に虚空を感じる。
自分はここから何ひとつ持ち出す事は出来ない。
自分はここから実家に何も持ち帰らない。
佳苗の事で何かが分かったとして、それがその後の自分に何になるだろう。
青木が言うように次の恋愛、或いは結婚の展望が開けるとは、
君子には思えない。
「君ちゃん」 悠斗が寄ってくる。
買い与えた文字の練習帳を持っている。
君子が座ると嬉しそうにそれを開いて見せた。
眺めては褒め、めくっては直し、声を合わせて読み上げる。

「子供が欲しい」 君子は言った。
悠斗を寝付かせた後、青木が二階に上がってくるのを待ち伏せた。
「そういう誘われ方も新鮮でいいけど」
冗談にする青木を追いかけて、その私室に入る。
先回りしてベッドに座る。
青木は拳を腰に当て、君子を見下ろした。
「迷惑はかけない。あなただって子供は好きでしょう」
「ここに来たという事は キャベツ畑では探せないって分かってるんだよな。
意味は全部分かっていて言うんだよな。俺に種付けをしろとな?」
「そんな言い方!」
「してるのはそっちだろう」
「だって!」 君子は両手で膝を叩いた。痛い。「……ごめん 悪かったわ。
あなたならいいかなと思った。思えた。だから言っているの。種馬なんて思ってない」
人間的に青木を認めていた。
肌を合わせる以上異性として受け容れる気は勿論ある。
いつかの接吻が不快でなかった事は自分でも分かっている。
「子供は 好きだよ」 青木は言った。
「でしょ!」 君子は勢いを取り戻す。
「だが。俺は俺の遺伝子が好きじゃない。自分の子供が欲しいわけじゃない」
「ええ?」
青木はため息をついてベッドの、君子の横に、君子から少し離れて座った。
「それに俺は 両親揃って子供を育てたいんだ」
青木の境遇を思い出す。衝撃を受けたのに、普段は殆ど忘れている。
何の苦労も知らず育ったように青木は見える。屈託なく人生を生きている。
君子の目に浮かんだ狼狽を察したのだろう、青木は続けた。
「別に自分の人生を補完したいと思ってるんじゃないぜ。
そういう事がどういう事か知りたいんだ。それ以前の興味もまだ満たしていない。
悪いが」 ドアを指さす。「今日のところは帰ってくれ」
「怒ったの」
「子づくり目的じゃなきゃ 応じてもいいが?」
君子は立ち上がる。



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by officialstar | 2012-08-01 15:33 | 星を問う

星を問う 16


一周忌が近づく。
準備の大体を小山内が手配した。
何度か佳苗の実家に電話したようだった。
君子に頼みかけ、取り消すという事もあった。
気乗りしないが自分の義務だという様子に、
後日君子は佳苗の母親が苦手なのかと訊いた。
以前から気になっていた事でもあった。
小山内は最初少しばかり怒ったように口を結んでいた。
だが思い直してそれを開く。
「積極的に話したい相手では ない」
「どうして」
それでもまだ迷うかのように視線を泳がせる。
「佳苗を 悪く言う」
「悪く?」
「いや そうじゃない。悪口というのではない。
娘の至らなさを詫びるだけの よくある事なのかも知れない。
だが それがいちいち引っかかるのだ。聞きたくない」
「佳苗は料理も裁縫も 家事ひととおり出来たでしょう」
「俺に不満はなかったさ。料理の腕は誠司も褒めている」
「うん」
君子にとって佳苗は自慢の友人でもあった。
先から夫である小山内に正当に評価されていないような気がして、
それがゆえにこの小山内が嫌いでもあった。
佳苗の母も同じなのではないか。
「あまり何度も言われると 佳苗が母親に何かこぼしているのかと思えて」
「たとえば」
「俺の態度が冷たいとか うまくいっていないような」
「それは自分に後ろめたいところがあるからではなくて?」
先刻から小山内が不快を抑え込んでいるのは分かっていた。
それでも懸命に君子と対話している。
努力を酌んで寛容になりたいと思いつつも、そうできない君子だった。
性分と、自分は佳苗の側にいるという意識ゆえ。
小山内は奥歯を喰いしばるように喋り出した。
「結婚当初 いや 結婚前から。それこそ最初の挨拶からだ。
俺は自分で佳苗を選んだのだし家事能力を評価してそうしたのでもない。
結婚前の佳苗とその後に落差を感じた事もなかった」
「じゃ ……篠原惠とはどうして? いつから。怒らないで。逃げないで。
権利とはもう言わない。私は知りたい。私が知りたいの」
君子は誠意を込める。批判を消して懇願する。
青木の言葉、ひいてはその知人であるかつての少女の言葉が脳裏にあった。
愛情は変わるものなのか。
「……悠斗が生まれて から」 小山内は言った。
「妊娠中ではなく?」
「一歳になる 頃だったか」
「佳苗が育児に夢中だったから? やつれたから? 遊びたかった?」
「違う」 小山内は声を上げた。逃げ出したいのを必死に堪えているようだった。
この場に留まる事が佳苗への謝罪であったのか。或いは。
彼自身知りたいと思う事が出てきたのか。
「俺は悠斗が可愛かった。俺こそが夢中だった。
だが 俺が悠斗に入れ込めば入れ込む程 佳苗は沈んでいく。
マタニティブルーか育児ノイローゼかと思った。だが違う。
俺は俺なりに育児を手伝った。佳苗の為にも。何より悠斗が愛しい」
声に滲み出る悲壮感に君子は居たたまれなくなった。
小山内の浮気の糾弾と、これ以上の裏切りの阻止にこの家に乗り込んだのだが、
その目的を見失いそうになる。
悠斗が愛しい。それは嫌と言うほど見せつけられてきた。
苦手だった青木が人間味を増すと同時に、
彼の信頼を得ている小山内も違って見えてくる。
浮ついた気持ちで他の女に手を出す男には思えない。
しかしそれは事実なのだ。そんな女に一度は悠斗を預けようとした事も事実。
「悠斗を抱く俺を見る佳苗の目が 日ごとに痛くなる。
なあ? 訊きたいよ。どうしてなんだ? 佳苗の子供だ。俺と佳苗の子供だ。
それを愛しんで どうして佳苗に非難されなけれならない」
「非難 なの」
「他にどう解釈すればよかった? じっと悲しげに見られて どうしろと」
佳苗は子供好きだった。少なくとも君子よりはそうだった。
夫の愛情が子供に移ったからといって嫉妬する筈はない。
何がいけなかったのか。どこですれ違ったのか。
「……間違えないでくれ」 俯いて小山内は言った。
「え?」
「自分を正当化したいわけじゃない。俺が悪い。それは分かっている。
篠原との事は認める。隠さない。俺は答えた。教えて欲しい。
あいつは 知っていたのか? 佳苗は」
警察は事故と断定した。保険金も支払われた。
それでも疑いは完全には晴れない。君子には尚更だ。
切なくて。
だが佳苗の態度が小山内を浮気に走らせたのなら、
佳苗の悲嘆の原因はそこにはない。知っているかいないかなど関係ない。
君子は手紙を明かそうかと迷う。
小山内を探るのではなく、小山内と探す事にする。
しかしどうしても言い出せなかった。
「知らなかったと 思う」 それが精一杯だった。それで小山内は少しは救われる。
小山内は顔を上げて君子を見た。
唇が微かに動いたが、表情は暗いままだった。
発せられた言葉が「ありがとう」だと君子が気づいた時、
小山内は背を向けていた。
「佳苗の」 君子は急き込んで問う。「背中の痣」
疲れた顔で振り向いた。
「見てる よね?」
先日聞きそびれた事だ。恥ずかしがっている場合ではない。
「どう 思ったの」
「何も」 小山内は答え、前を見た。
だが歩き去るでもなくじっと立っている。
振り向かないまま続けた。「俺は佳苗が 他人の目を気にした事が許せない」
「え?」
「結婚前ならともかく。悠斗まで産んで完全に俺と夫婦になって
それでも尚 他人の目を気にして水着を嫌がった事が 俺には許せない」
追及を許さず小山内は歩き出す。
君子は立ち竦み、その言葉を反芻していた。



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by officialstar | 2012-07-31 14:27 | 星を問う

星を問う 15


君子の目には佳苗の傷痕は特別なものには映らなかった。
旅行に行けば当然風呂も入る。背中全体を露わにしても痣の面積はしれていた。
だがその程度の瑕疵でも男には問題になるのだろうか。
君子は訊いた。「嫌だと思うもの?」
「観賞用なら そりゃあね。きれいなのに越した事ないかな」 青木は言う。
君子に睨み付けられ、「真面目に答えてるさ」と返す。
そして「何 君 あるの?」と訊いた。
君子は挑戦的に胸を張り、「ある」と答えた。
さして興味もない風に青木は殆ど声にならない音を鼻から洩らす。
それは最初から鑑賞性を期待しないという意味なのか。
女性としての価値を君子に求めていないという事なのか。
君子は寝室に入って自分の支度を始めた。
実家から持ってきた水着はすぐに見つかった。後はTシャツか何か。
適当な鞄を探し放り込み、思い直してまた引っ張り出す。
下に着こんでいった方が簡単だ。となると帰りにつける下着とシャツと……
背後に気配を感じたが、青木である事は分かっていた。
振り向きもせず作業を続ける。
両腕を掴まれた。びくっとした瞬間に、背中に何かを押し付けられる。
髪の感触と、鼻骨の固さに、しっとりと伝わる熱が唇のものである事を知る。
君子は衝撃で硬直してしまう。
その間に青木は唇を背骨に沿って這わせていった。
呆然としていたのは数秒の事だったろう。君子は「何っ」と体を伸ばした。
青木は両手を離し、一歩下がる。
肩越しに振り返って視線を座らせる。「何の真似?」
「うーん」 いたずらを見つかった子供だ。「おまじない」
「何のっ」
「さあ」 青木は部屋から出て行った。


その夜である。
遊び疲れた悠斗と、これまた疲れた君子は早々に寝てしまった。
青木は氷の溶けた水割りを眺めている。
小山内はその青木を眺めている。
「疲れた?」 友人が口を開かないので、仕方なく沈黙を破る。
「そうでも」 青木は答えてグラスを空ける。顔を顰めた。
「悠斗 喜んでいたよ。ありがとう」
「礼なら君子に」
「言った」
青木は二杯目を作る。小山内はそこに自分のグラスを並べた。珍しい事だ。
小山内の分を押し遣り、自分のを口に運んで、青木はその手を止めた。
「忘れた」
「何を」
「確かめるのを」
青木は一点に目を凝らす。漠然とした記憶の中に何かを探っている。
そしてすぐ諦めた。「写真的記憶術ってのは どうやるんだった」
「苦手だ」
「君子の背中に どんな痣があるか 見ておこうと思って忘れていた」
小山内もまたグラスを止めた。「あるのか?」
「と言っていた。だが なあ? 確かに何度か後姿を見た筈なんだが。
あったという記憶も なかったという確信もない」
「それが?」
「どういう事なのだろう?」
真面目に訊き返され小山内は面食らう。
「混んでた?」 努力して質問を探した。
「そこそこ」
いつもは一人で会話を進める青木が押し黙ってしまう。
小山内の方からは切り込む事が出来ない。
混んでた。若い子も来ていた。そこまでを引き出すつもりだった。
ああ きっと若い女の子ばかり観ていたんだな。
だが青木はグラスを揺らしているだけだ。
「疲れているのなら 早く寝ろよ」 小山内は言った。
青木は素直に「そうだな」とグラスを煽った。

深い眠りに突き落とされた後、君子はふいに目覚めてしまった。
覚醒の直前に聞いた音が残っていた。
無意識にその正体を探る。階段を上がる音。青木だ。
階段の右に寝室。その奥に子供部屋。
足音は上がり切ったところで止まってしまった。子供部屋のドアが開く音もしない。
ベッドの中で君子は体を固くする。
ドアの外に青木がいる。青木が佇んでいる。
違う。自分はまだ目覚めてないのだ。青木は気づかぬうちに部屋に入ったのだろう。
闇の向こうに意識を飛ばしても何も拾えない。
隣室で物音がすればいい。だがそれもない。
君子は目を閉じ、早くなった呼吸を抑える。息を潜めて気配を探る。
青木の息遣いが耳に響く。幻聴だ。分かっていても消せない。
昼間の事を思い起こされる。背中に受けたキス。
柔らかく背を這い上がり、実際にはその前に君子が動いてしまったのだが、
妄想の中で青木の唇は君子の首筋に至る。
耳朶にかかる息。
君子は身を丸める。傍らの悠斗の寝息に耳を澄ませる。
悠斗の存在で自分の感覚を埋めようとする。
長い時間と、長い緊張の末、すべてが思い過ごしだと君子は息を吐いた。
廊下にも隣室にも物音はない。
馬鹿。唇だけを動かして呟く。
自分に向けて。そして昼間の青木に向けて。
恋人でもない相手にあんな事をするものではない。
そして結局青木はプールでも、その後にも何も言わなかった。
君子の背には目をひくような痣も傷跡もない筈だった。
その嘘を青木は指摘しなかった。
最初から冗談と聞き流していたのか、青木にとってどうでもいい事だったのか。
鑑賞用ではない。ええ。それは勿論ね。
君子は目を開けて闇を見据え、また目を閉じた。
馬鹿みたい。そう呟いて眠る試みに入る。


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by officialstar | 2012-07-29 09:35 | 星を問う

星を問う 14



生活は少しずつ進行していった。
主婦業に慣れ、悠斗に小言を言うようにもなった。
季節が変わっても佳苗の母親の訪問はなかった。
悠斗を連れて遊びに行った方がいいかしらと小山内に問う。
行くのは止めないが、自分は遠慮するという返事だった。
佳苗は三人兄弟の一番上だ。弟と、その下に妹がいる。
弟は県外だが、妹は結婚して実家傍に住んでいる。
そこに孫もいるのだろう。悠斗はそれほど重要な存在ではないのかも知れない。
小山内の反応を見ていると、君子も億劫になってしまう。
佳苗の母親はどういう人だっただろうか。
君子らが大学生の頃に寡婦になった。
経済的には困窮しなかったようで、佳苗の曰く、若返ったという。
封建的な夫であったらしいから解放されたという事だろうか。
北陸の料亭か何か、老舗の出だと聞いた。
お嬢様気質ながら昔風の良妻のイメージだった。
小山内と合わないのはなぜだろう?

佳苗の誕生日。君子はケーキを買った。
春を迎えて悠斗は年長さんになる。

悠斗を連れて実家に行くと、まるで自分の孫のように母が喜んだ。
進級のお祝いだと好物を振る舞う。
「悠斗くんに 弟か妹 欲しいね」 母が言った。
君子の顔を見て、「まあ すぐにとは言わないけど」と続ける。
悠斗が落ち着くまでそれは無理だ。そう思ったのだろう。
君子は黙って頷いた。
「お前は健康だからいいよね」
何気なく言った事だが、君子の中で何かが弾けた。
佳苗の声が重なった。
「君子は健康だから いいよね」
いつ? 君子は懸命に追いかける。佳苗の寂しそうな顔。力のない声。
事故の時? 違う。
旅館。そうだ。旅館かどこか。
君子は思い出す。夕食にビールを飲んで、佳苗が喘息を出してしまったのだ。
アトピー性の皮膚炎と小児喘息の症状が幼少時にあったが、
成人してからはどちらも治まっていた。
ただ稀にアルコールを摂取した際に喘息、或いは喘息に似た発作が起きるらしい。
佳苗は君子に何度も謝った。
朝までに治らなくても日程を変えるだけだし。
様子を見なければ分からないじゃん?
佳苗が君子に「健康だから」と言ったのは、その時だった。
結局朝には落ち着き、予定通り旅行を続けた。
発作が出た事など知る限りではその一回だけだが、
結婚後飲酒を控えていたのはそのせいかと君子は思った。
「まさかね」
その後も旅先で佳苗はお酒を飲んだし、ランチなどでもワインは欠かさなかった。
出産して嗜好が変わったとか、そういう事じゃないか。
そう振り切ろうとしたが、その思いは澱のように胸に沈んだ。
佳苗が君子に見せていた顔と、小山内の知るそれは違うのかも知れない。
そしてまた、自分が見ていた佳苗が佳苗の全部であるとも限らない。
君子は二階に上がり、自分の部屋でアルバムを開く。
未整理のスナップ写真を広げているところに悠斗が来た。
「お母さんだよ」と佳苗の写真を渡す。
卒業してからのものは大方はデータ保存で、ここにはない。
写っているのは制服を来た佳苗だ。
野暮ったく束ねた黒髪の、どちらかというと童顔の佳苗に
悠斗は首を傾げて母親を重ねようとする。
だがすぐに「君ちゃん」と横に並ぶ君子を指さした。
髪の短い彼女は今とあまり雰囲気は変わらない。
悠斗はあちこちを指さし「君ちゃん」と言う。
佳苗の写っている写真を何枚か選び、鞄に入れた。
覚えているようで忘れている事もある。
一枚の写真から様々な思い出が広がった。
楽しかったねと呟いた途端に、悲しみが押し寄せてきた。
佳苗が生きている間は、そんな感傷に浸った事もない。
取り返せる筈もないのだが、失われた時間でもなかった。
それが友人の死によって決定的な過去となる。
「君ちゃん?」
「ごめんね」 一度は堪えようとした涙だが、君子は溢れるに任せた。
悠斗はその横で暫く君子を眺め、やがて走り去った。
タオルを手に戻る。
何も訊かず、泣かないでとも言わず、それを差し出した。
君子はタオルに顔を埋めて泣き続けた。


梅雨明け間近の休日。君子はプールに行こうと言い出した。
何年も水着を買っていないが、別に古いデザインでも構わないだろう。
悠斗のものは園での水遊び用に購入してある。
小山内は少したじろいで「水着がない」と言った。
青木は「探せばあるぞ」と、悠斗と一緒にはしゃぐ。
「三人で行ってくるから」 君子は小山内に言った。
小山内はためらいがちに「悠斗は初めてなんだ」と明かした。
彼が水着を持たないというのも、そういえば変だ。
「佳苗が 行きたがらなかった」
君子は驚く。この暑さだ。水に入りたいと大人でも思わないか?
子供連れならばファッション性もスポーツ性も無視する言訳になる。
佳苗は基本遊びには積極的だった。悠斗が喜ぶ事は分かり切っている。
「背中に 痣があると」
「ええ?」 
学生時代に、そう告げられた事はあった。
だがスクール水着から見える範囲は、どうという事もなく、
アトピーの酷かった頃の掻き傷だと言うが、当人が気にする程でもなかった。
事故で怪我を負ったのは脚かどこかで、それは関係ないだろう。
君子は小山内を見る。小山内は目を逸らした。
途端、君子は自分が立ち入った場所に気づき赤面する。
青木は水着を探しに行ったまま戻らない。悠斗もだ。
独り言で取り繕いながら君子は二階に上がる。
青木が寝室にしている子供部屋に入った。
「あったよ」 青木が振り回した。「後は何が要るかな?」
「タオルぅ!」 悠斗は叫ぶと階段を駆け下りていった。
君子の困惑した顔に、青木は「どうかした」と訊いた。



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by officialstar | 2012-07-27 11:47 | 星を問う

星を問う 13


すきやきの準備を見て、青木が笑った。
「誰が奉行をする?」
意外や、小山内が手を挙げた。
君子は母親の作業をまともに見ていなかったらしい。
青木が口を挟むのを黙って聞くだけだった。
出来あがったそれは、君子には少し甘い。
悠斗に取り分けてやる。
「一日 何していた?」
「洗濯」 君子は答える。小山内と青木の下着の判別に悩んだ。
青木の好みが全く分からない。
「掃除」 それは一階部分だけ。明日は二階。「買い物」
「慣れないと一日があっという間だろう」
「慣れればそうじゃなくなる?」
「悠斗のおやつを手作りする余裕も出てくる」
「……忙しくなるばっか」
ふたりの会話を小山内は聞いていない顔をして聞いている。
君子はふと辛くならないのかと思う。
ここに佳苗がいたらと思えてくる。それは小山内も同じではないか。
だが訊かない。奇妙なその調和を乱したくなかった。
「こら 肉の横にしらたきを入れるな」
「え そうなの」
「奉行に任せておけって」
呑み始めたらやりたくないだろうと思ったのだ。
小山内は青木ほどに呑まない。
嗜む。その単語が浮かぶ。
青木が君子にグラスを差し出した。君子は断った。
決して嫌いではないが、この後の家事を思うと気分になれない。
「佳苗は呑んでいた?」と小山内に訊く。
驚いた顔で小山内は首を振った。
君子より好きで、君子より強かった筈だ。
青木が「皿洗いは引き受けた」とグラスを押し付けてきた。
小山内があまり呑まないから面白くないのだろう。
君子はグラスにビールを受けた。
悠斗がずるいと言うので、一杯だけジュースを許す。
小山内は鍋と悠斗の面倒を見る。悠斗は肉より焼き豆腐を好んだ。
鍋に食べ残しが出たが、青木は明日おじやにするのだとキッチンに運んだ。
「お肉が余っちゃった」 君子は言った。
弟ほどには二人とも食べない。
青木が皿を盆で運び、君子は座卓を拭いた。
「佳苗は」 小山内が言った。
君子は一瞬手を止めそうになったが、堪えた。
構えたら小山内は黙ってしまいそうだった。
「酒を飲んでいたか?」
「それなりに」 君子は注意深く答えた。「家では全然?」
「勧めた事もなかった」
青木が引き込まないわけがないと君子は思う。
だから佳苗は呑まないと決めていたのだ。
小山内は軽い衝撃を受けたように壁に凭れた。その膝に悠斗がよじ登る。
「誠也と ああ 青木な」
「知ってます」 一応夫なのだ。婚姻届も見た。
「誠也と話していて 気づいたのだが」
小山内は自分は佳苗の学生時代をほとんど知らないと言った。
君子の名前は何度か耳にしたが、他の交友を佳苗から聞いた事がない。
葬儀に自分しかいなかった事を君子は思い出した。
ずっと同じクラスだったわけではない。
それぞれにつきあいがあった。佳苗は人当りはいい方だ。
だが小山内が見つけたのは殆どのページが破り取られているアドレス帳だと言う。
「結婚するとつきあいにくくなるって言ってたな」 君子は思い出す。
自分は独身なので分からない。
だが確かに複数の既婚の友人と同席した時に、気まずさを感じた事はあった。
結婚相手や、子供の有無などから生じる温度差が時に場を重くする。
独身の君子にはそれを楽しむ余裕もあったが、
佳苗には煩わしいものでしかなかったかも知れない。
彼女の交友はまた、君子のそれよりその色が濃そうでもあった。
「佳苗には羨ましがられる要素の方が多いのに」 
君子は室内を、気持ちの上では家全体を見回す。
「自分の一番幸せな時はいつだったと思う?」 小山内は訊いた。
「え? 私?」
君子は真剣に答えを探す。
「たとえば 学生時代に戻りたいとは 思わないか」
それは小山内の真意に触れる機会でもあったのだが、
学生時代を振り返るのに君子は忙しかった。
教室や図書館や通学路。
あれは思い出になったから輝いているのだ。
現実に戻れば道端の日常に戻るだろう。
一生を同じ時間の中で繰り返すというのなら選ぶのもいい。
だが戻ったところで何も変わらない。
やり直す事もやり残した事もない。自分は結局同じ事しかしない。
「懐かしいけど それだけだわ。今も同じ程度には不幸でない状況だと思う」
「不幸ではない? それはまた消極的な表現だね」」
「この設定を幸福と呼ぶほど 私 ひねくれていない」
それを自分のものとしていた佳苗でさえも、切ないと訴える。
夫と子供と家。
「では 小山内さんの一番幸福な時はいつ?
これまでの人生の中で 確かに幸せだったと言える瞬間は?」
「それは」 小山内は口を開いた。
言うべきことを持っている切り出し方だった。
だが彼は黙ってしまった。
悠斗を見る。悠斗は父親と目線を合わせ、何を思ったか立ち上がった。
そしてキッチンの方へと走り去ってしまった。
子供が生まれた時。
小山内が答えようとしたのはそれかも知れない。君子は思う。
至極まっとうなその答えを、彼が口にしなかったのはなぜだろう。
君子は出産祝いを携えて、この家を訪れた時を思い出す。



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by officialstar | 2012-07-25 09:32 | 星を問う
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小説


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