烏鷺

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カテゴリ:DOLL( 32 )

ご挨拶 DOLL完結と休止

おつきあい頂きありがとうございました。

DOLL 時系列で並べるとこの順番です

弟と同学年である語り手の年齢
小学二年生  達央
小学三年生  優奈
小学四年生  正敏
小学五年生  恵利加
小学六年生  透

中学1年生  真理子
中学2年生  悟志
中学3年生  さえ


ちなみ書かれた順番は

真理子・透・さえ     ここまでは2007年

そのまま未完で放置。

再開後は
達央・優奈・正敏・恵利加・悟志 そして雪子 です。


はー 完結できてよかったです。
ラストを書きたくて書き始めた話ですし。
そのラストが書きたいがために「あーつまんねー話」と思いつつ
たらたらやってきました。

といっても つまんねー のは読みものとしては で
書くのは意外と楽しかったです。
殆ど苦しまなかった作品とも言えます。

5年のブランクがいい方に作用したようです。


ラスト 分かりづらかったらごめんなさい。
説明が過ぎると間抜ける。

王子様のキス ならぬ 王女様のキス ってとこかな?



ちょっと古巣に戻ってきます。
こちらは休止としときます。
またいつかお会いできるといいな。

読んで下さった方々 本当にありがとうございました。
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by officialstar | 2012-09-02 15:51 | DOLL

雪子(さえの母)  DOLL 完



合格通知が届いても娘は行くと言わなかった。
このまま謝礼だけ送る事も出来なくはなかったが、
親として挨拶はしておきたい。

娘が望んで頼んだ家庭教師だった。
店で知り合った大学生に勉強を見て欲しいと娘が言い出した時、
正直迷った。娘の真意が分からなかった。
夫に娘を信じろと言われても、まだ15歳の子供。
会ってみて決めると告げ、揃って顔を合わせた。
印象は真面目な大学生。
特徴はこれといってなく、だがそれだけに男臭さもなかった。
柔らかな、涼やかな、それでいて有無を言わせぬ語り口。
知性と同時に何かの壁を感じさせた。
夢見がちな少女期の娘が憧れる可能性は充分にある。
相手の自宅でという条件に危惧したが、どうやら弟がいるらしい。
その弟が先方宅での指導の理由だった。
謝礼など示された条件はむしろこちらに都合よく、反対する口実は見つけられない。
彼と会い、彼と話し、親が抱く当然の心配、
娘が彼と男女の仲になるのではないか、というそれも薄れた。
女の直感というものだろうか。
彼からはその匂いがしない。

娘は通い続け、成果も出始めた。
塾にも行っているのだから、その全部が彼によるものとは言えない。
だが日頃の熱心さは何より娘自身の意欲だと分かった。
その意欲の根源は彼にある。
親としてはもう何も言えない。
クリスマスに少し息抜きをしたいと言い出した時も、
私は反対しなかった。
欲しかったのは受験生の自覚だ。それはもう娘の身についていた。
プレゼントらしき包みを部屋で見つけ、それが二つである事を確認した。
彼と、弟の分。

全てが順調で、灰色の受験生活がこんな風に過ごせるならば、
結果はどうあれ、これでよかったのではないかと私は思い始めた。
一生懸命に勉強する姿を見て、そう思えたのだ。
勉強に、そしてやはりそれは恋心だったのだろう、生活の充実に娘は輝いて見えた。
それが陰ったのはいつだったか。
私立受験が終わった頃か。それともその少し前ぐらいから?
華やぎが、苦悩へと変化する。

恋であっても構わないと私は思った。
受験本番は目の前であったし、それが終われば当人たちの問題だ。
それ以前に踏み外す事はないと、私は娘と、彼を信じていた。
だが、私は心のどこかで、そんな事には決してならないとも思っていた。
案じていたのは娘の失恋と傷心。
それすらも受験の妨げにならないようにする配慮は、互いにあっただろう。
私立に合格し、続く公立試験も無事終わった。
待ち望んだ合格通知を、娘は私に渡した。
「報告 お願い。どうせ謝礼も持っていかなきゃ でしょう」
「いつもあなたが持っていくのに」
「合格したら お礼を考えるって言ってたじゃない。行ってきて」
何も言えなかった。何も訊けなかった。
娘の恋はもう終わっていたのだ。

それはいい。それでいい。分かっていた事だ。
どういう形で終わったのか、私が関与すべきことでもないだろう。
立ち入れるのは受験の結果までだ。
私は小さな菓子折りと、前月とこれまでの事への謝礼を携え、彼のマンションを訪れた。

応対に出たのは、彼ではなかった。
彼によく似ていたが、記憶にある印象と違った。
弟だ。名前を私は知らない。
兄の方の名前を、先生とつけて呼んだ。「ご在宅ですか?」
弟は戸惑った顔をする。私は娘の名を告げる。
「さ え?」 数瞬の間記憶を探り、指先で唇に触れた。
考え事をする時の癖なのか。「ああ」と顔を輝かせ、改めて私を見る。
「お母さん?」
「母です。お兄さんに教えて頂いて 志望校に合格したので その報告に」
手にした包みを持ち上げ、「お礼方々挨拶に伺いました。お兄さんは?」
弟はまた困惑した表情を浮かべた。
肩越しに室内を振り返り、私に向き直る。
「えっと ……ここには僕しか いないんです」
「お出かけ?」
「そうじゃなく。えっと ここには僕しかいないんです」
その困惑が私にも移った。
兄だけが引っ越したという事なのだろうか。
だが娘の最後の授業からまだ半月程だ。転居の話も聞いていない。
「いつごろお戻り?」
「だから ここには」
身体が弱いと聞いていた。そうではなく知能か精神障害だったのか。
兄に似た利発そうな瞳からはそう思えなかったが、先に進めそうもない。
渡しておけば後日電話なり連絡をくれるだろう。
私は包みを少年に差し出した。


その後彼から連絡はなかった。
娘は私に何も訊かず、私もまた訪問の詳細を話す事はなかった。




雪子  完
DOLL   完
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by officialstar | 2012-09-02 15:34 | DOLL

悟志 4



「そうなら?」
僕は彼が意地悪だと思った。初めて思った。僕に言わせたいのだろうか?
唇を噛んで僕は押し黙る。
彼は首を傾げて斜め下から僕の顔を見上げた。
「君がそうでも 僕にはどうしようもないよ?」 彼は言った。
指の先で弾かれた気がした。僕は顔を上げる。
「それは君の問題で 君が折り合っていくしかないんだ。助けられない。
受け容れてしまった方が楽になれるとは思う。でもそれを強要する事は出来ない。
君の人生なんだもの。君がそれを厭うならば君は逃げるしかない。
どちらを選んでも それは君の人生だ。
そしてどちらを選んでも 僕はそれを否定はしない」
彼は静かに淡々と話した。
僕が恐れた僕への嫌悪や非難は微塵もなかった。
「嫌じゃ ないんですか」
「君がそれで苦しんでいるとしたら 辛いね。君はとても繊細だから。
肩代わり出来ない僕も 自分の非力さに もどかしい思いをしなくてはならない」
「僕の事 は いいんです。そうじゃない そうじゃなく あなたは」
ズボンの布を掴んだ。その指が震える。汗が吸い込まれていくのが分かる。
「あなたは僕を」
「可哀想だとは言わないよ」
「そうじゃなく!」 思わず声を荒げた。
僕は肩で息をしていた。彼は僕の手に、その手を重ねた。
それが答えだと僕には分かった。
彼は僕を軽蔑も否定もしていない。
「ねえ」と彼は言う。「僕はこの子を愛しているよ」
人形の事だ。彼には弟なのだ。
「おかしいだろう? でもこの子は僕の弟なんだ。弟のように僕は彼を愛している」
「死んでしまったの?」
「そうだよ。僕はそれを認めたくない。僕は弟を失いたくない。でもそれは」
「全然!」 叫ぶように僕は彼を遮った。彼が自分を否定する言葉など聞きたくなかった。
そして僕は彼の行為を異常だとは思っていない。
彼は僕から手を離した。「うん」
立ち上がって人形の前に行く。髪を撫で、頬を掌で包んだ。
首の角度が少し動いたのだろう、人形が兄を見上げたかに感じられた。
視線の重なりが、兄弟の情を温度で伝える。
「選ぶんだ。選んだ後は迷わない。選ばなかった道を思わない。僕は弟を選んだ。
失ったものは多い。父さんは海外から戻らない。僕は高校を中退した。友人も いない。
君もいつか選ばなくてはならないだろう。自分に正直になるか 世間に阿るか。
だが それは誰しも同じだ」
「後悔は ない?」
「今はまだ 信じていられるから」
何を? 問いは口まで出ていたが、僕は訊けなかった。
その答えは分かっているような気がした。
彼は弟から離れると、いつもの声で「コーヒー?」と訊いた。

「僕があなたを好きになったらどうしよう」
そう訊く事が出来たのは、それから数か月後の事だった。
顧問に退部届を出した。僕は塾に通い始め、週に一度彼の部屋を訪れる。。
不思議な事に弟の緊張が少しずつ解かれていく。
僕の意識の変化だろう。人形から、僕にとっても彼の弟へと変わっていった。
最初に感じた家族の匂いが僕を一緒に包む。
その安心感だろう。僕は冗談と本気を混ぜて彼にそう訊いていた。
彼は笑う。「さて どうしようね」
「困る?」
「それは君が女の子でも同じだけどね」
「どうする?」
「その時考えよう。どんな恋愛でも最初は一方通行だ。今から悩む事じゃない」
「不安じゃないですか?」
彼は僕の腕を見る。僕はまだ体の完成しない中学生で、部活をやめて筋肉も少し落ちてしまったけれど、
それでも彼より腕は太かったかも知れない。
彼はもう一度「その時考えよう」と言った。


結論から言おう。
僕が彼を好きになる事はなかった。
その願望は根底にあったと思う。僕は彼を好きだった。
友人として家族として分かり合える存在として、だがそんな意識ではなく、
ただ彼が好きだった。彼と一緒にいられる事が嬉しかった。
彼を取り巻く空気に棘を感じた事はなく、
僕の彼への感情に負の要素が混じった事は一瞬たりともなかった。
弟に対する嫉妬さえ。彼が弟を愛している事が僕への肯定でもあった。
人形を抱く彼ごと僕はその存在を愛した。
会えない間も彼を思う程、僕は彼が好きだった。
それでも僕は、彼を好きにはならなかったと言える。

僕は別の人を好きになった。
最初からそういう人を分かっていて好きになった。
年上のその人は僕を受け容れてくれた。

そして僕は彼を訪れる事をやめた。
彼への気持ちは変わらない。弟への気持ちも変わらない。
だがそこはもう、僕に相応しくない場所になったのだ。
或いはそれ以外の理由を僕は持っていたのかも知れない。
僕はさようならも言わず、彼に会うのをやめた。




悟志 完
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by officialstar | 2012-09-02 15:29 | DOLL

悟志 3


いつか打ち明けなければならないと思っていた。
だが僕は彼に嫌われたくない。
僕の思春期を知れば彼だって「またね」とは言わないだろう。
そんな事になったら僕はどうしていいか分からなくなる。
言わなければ彼は気づかない。気づかれないくらいなら問題はない。
僕は彼と一緒にいられればそれでいい。彼との時間があればそれでいい。

しかし秘密は重い荷物だ。
肩に喰いこみ、心に喰い込んでいく。

「秘密 守れる?」
ある日彼が訊いた。僕はどきっとする。
彼は僕の目を見て「よね?」と言った。
頷くだけで、僕はただ頷くだけでよかった。
だが出来ない。
「そんな価値 僕にはありません」
「聞きたくないって事?」
「違う! 知りたい 知りたいですよ。あなたに秘密があるなら。
でも僕にはそんな価値なんてない」
「誰が決めるの。君? 僕? 知っておいて欲しいと僕は思った。それじゃ駄目なの」
「僕は」 

時間が止まる。
僕は言葉を続ける事も、呼吸する事すら、出来ない。
彼が動いた。
立ち尽くす僕を見て、奥の部屋のドアを開けた。
「友人である事の資格を問うなら 問われるべきはまず僕だ。ほら」
友人という言葉に引かれ、僕はよろめくように戸口に近づいた。
彼の手が伸び、照明のスイッチを押す。
椅子に座る少年の姿。肘掛に腕を預けて王子のように優雅に脚を広げている。
「誰……」
「近づいてご覧」
彼に背中を押され、僕は室内に入る。
気づいたのはどこでだっただろう。
その少年は息をしていない。瞬きをしない。その少年は生きていない。
完全な認識は最後だった。それは人形だ。
生きていない人間、なのではなく、最初から生のない人形だった。
だがそう思うのが困難な程、少年は生き生きと魅力的だった。
「弟」
彼にそう言われて僕は納得する。
つまりこれは彼の弟代わりの存在。
「これが 秘密?」 僕は問う。
「そうだよ」 彼は少し語尾を上げ、意外そうな響きを含ませて答えた。
それを秘密とする事の方が僕には意外だったが、
僕のその受け止め方が彼にとって想定外だったという事だろう。
しかし彼が人形を持っている事も、それを弟と呼ぶ事も僕には抵抗がなかった。
それは少しばかり大き過ぎて、簡単に手に入るものではないとは分かったが。
「生きているみたいだ」 僕は言った。
言ってから後悔する。彼にとってそれは生きているのかも知れない。
だが彼は落胆も憤りも浮かべず、口の端をわずかに上げただけだった。
「君に大層な覚悟をさせてしまったみたいで 申し訳なかったね。
資格を云々するほどの秘密じゃなかったかな」
「あなたにとっての秘密なら 僕にとっても同じだ。共有できて 嬉しいです」
「君は本当に優しい子だね」
その言葉が心からのものである事を疑う理由はなかった。
僕は苦しくなる。
もう黙ってはいられない。彼を騙し続ける事は許されない。
僕は優しくも、いい子でもなかった。
「僕の秘密を言ってもいいですか」
「言いたければ?」 彼は言う。
言いたくなどなかった。
「……男が好きなんだ」
彼の表情にほとんど変化はなかった。
視線は弟に当てられたまま。口元は軽く緩んだまま。
ゆっくりと瞬きし、その間に顔を僕に向けた。
開いた目でまっすぐに僕を見つめる。「そうなんだ」
それから少し間を空けた。僕は待つ。
「君はこの事を話したい? それともこれきりにしたい?
訊いてもいいのなら幾つか質問がある。でも話したくないのならそれも分かる」
僕は話したがっている自分に気づく。
選択は言うか言わないか、だけだった。口に出してしまった今となっては隠す事など何もない。
彼は僕の手に触れて、床に僕を座らせた。彼が僕に触れた事が僕の救いとなる。
「いつ どうして そう思ったの? 誰か好きな人 いるの」
僕は部活の事を話す。同期のひとりの背中を追いかけていた事を話す。
その筋肉に触れたいと思い続けていた事を話す。それ以上はさすがに口に出せなかった。
顧問に相談した。顧問は「思春期の 憧れみたいなものだ」と言った。
耐えきれなくなって再び相談すると「休め」と言った。周囲に悪い影響を与えてからでは遅い。
部の雰囲気が悪くなるのは本意ではないだろう?
相手にだって嫌われたくはないだろう。
「安心しろ 一過性のものだ。じきに治る」
顧問に告げられたままを彼に語る。
「治る って言ったの」 彼は呟いた。辛そうに。寂しそうに。
僕の気持ちを代弁しているかのようで、その実彼の内心を訴えているようで。
それを吹っ切るためか声を上げ、「そうかも知れないし そうじゃないかも知れない」と言った。
「思春期特有の迷いなら何れ消える。残るならば 君はそういう人間なんだろう」
僕は言わなかった。
同性への、正常ではない衝動はこれが初めての事ではなかった。
まだ小学生の頃から独占欲に苦しめられていた。
ふざけあってじゃれあった後の、胸を締め付ける動悸。
僕はそうなんだ。そういう人間なんだ。
「もしそうならば」 彼は言った。




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by officialstar | 2012-09-02 08:51 | DOLL

悟志 2


彼は「親? 親はいない」と言う。
「ええ?」
浪人から一人暮らしという事もあるんだと驚いた。
予備校も地方じゃあまりないのかも知れない。
それじゃワンルームかしらと、僕はテレビでしか見た事がないその間取りに、
好奇心を疼かせて玄関に入った。
入ってすぐのダイニング。右手奥に低いソファ、ベッドにもなるタイプのだと思う、
その前にガラスのテーブルが置いてあり、ノートや参考書が広げられていた。
「向こうは散らかっているから こっちでいいね」とダイニングテーブルの椅子を引いた。
その方が僕にはよかった。
あんな低いソファにどうやって座っていいか分からないし、
脚を全く隠せないのも落ち着かない。
それきりのワンルームかと思ったが、あまりに物がなさすぎる。
僕の目線を追ったのか、彼は「奥にもう一部屋ある」と言った。
頷きかけ、僕は自分の行為を恥ずかしく思った。
「マンションとか 初めて? 家族用じゃないから お風呂 狭いよ 見る?」 彼は言った。
「いえ」
「礼儀正しいのは部活のせいかな? ええと 何を飲む?」
「お構い……」 大人の真似をしてみたが、正確になんというのか分からなかった。
「温かいの 冷たいの? 炭酸系大丈夫かな ちょっと待ってね」
棚を開けて缶と箱を取り出す。クッキーと何か洋菓子ぽいものだった。
それを見せて改めて何を飲むか訊いた。
「同じものでいいです」
「コーヒー飲めるの? でもミルクはないな。牛乳でいいか」
「同じでいいです」
彼は笑いながらキッチンに向かう。「座っててね」
「失礼します」
彼は丁寧に豆を挽き、フィルターを取り出した。
僕の家にはインスタントしかない。
スイッチを入れるとテーブルの、僕の向かい側に座った。
一人暮らしなのに椅子が4脚あった。
並べられたカップはセットになっていた。
大学生の下宿と少し違う。そんなもの知りはしないのだが、イメージと違う。
ここには彼しかいないのに、どこか家庭の匂いがする。
僕は「ひとり なんですよね」と訊いた。
「どうして?」
感じたとおりを口にした。家族の存在が消し切れない。学生の一人住まいには見えない。
彼は笑う。僕の見当違いを笑ったようには見えない。ただ、笑う。
幸福そうな、ずっと見ていたい笑顔だった。だから僕は答えを促さなかった。
コーヒーが入った。
彼は「本当に何も入れなくていいの」と訊く。
「クッキー 頂きます」と僕は手を伸ばした。それがきっと甘いから。
しかし僕はそれを後悔した。
コーヒーをまず味わってから食べればよかった。
それくらいそのコーヒーは美味しかった。
「おいしい」 思わず漏らしたその言葉を、彼は喜んだ。
それがとても自然だったから僕まで嬉しくなる。「おいしい。コーヒーっておいしいんだ」
「それでよければ いつでも飲みにおいで」 彼は言った。
僕は思わず頷いてしまう。
だが僕をそうさせたのはコーヒーの味だけじゃなかった。
この部屋の空気、何より彼の圧力を与えない存在感。
無個性という個性を、なまじな個性よりはっきりと示しながら、
誰にも何も押しつけない。僕がここにいる事を拒絶も強要もしない。
そんな相手は初めてだった。親だって僕をこんなに寛がせてくれない。
コーヒーをお替りし、僕はそれほど慌ててそれを飲んだ気はないのだが、
飲み干すまでの間何を話したか、一切覚えていなかった。
気まずい沈黙もなく、うるさい詮索もなく、彼が何か他愛もない事をしゃべっていた気がする。
「公園まで送って行こうね」と彼が立ち上がりかけるのを、
僕は「分かります。道 分かります」と止めた。
もう勉強に戻らなくてはならない時間だろう。
彼は「そう?」とまた腰を下ろし、両手の指を軽く組んで「じゃあ ひとりでも来られるね」と言った。
僕がお邪魔しましたと言いかけるのを「来てくれてありがとう」と遮る。
「楽しかった。君は とても優しい子だね」

帰り道泣きそうになった。
込み上げる涙を、彼の言葉と一緒に呑み込む。
僕は優しくなんかない。自分がどんな人間か自分が一番よく知っている。
この苦味が思春期だけのものならばまだ僕は救われる。
けれど。
小学生の時のサッカーですら無邪気に楽しめなかった事を、僕は覚えている。


部活の鞄を家に置いて出ても、親は何も言わない。
洗濯物がない事で休部の事は分かっているのだ。
僕は時にまっすぐ家に帰り、時に公園に寄り、そして思い切って彼のマンションを訪問した。
彼の歓待ぶりに、三度目は容易だった。
週に一度僕は通う。もっと行きたかったが彼の迷惑になりたくなかった。
そんな心を読むように、彼は「他の日は忙しいのかな」と訊いた。
忙しいわけがない。部活を休んでいるのだから。
その事実が僕の心を重くする。




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by officialstar | 2012-09-01 17:42 | DOLL

悟志 1


思春期をまるで病気のように考えていた時期だった。
薬を飲んで寝ていれば治る。やり過ごせばいつかまた笑える。
いい薬が見つからないので病院に行きたいが、その病院も探せない。
親は腫れもののように僕を扱う。
一番の相談相手である筈が、僕と彼らの間に出来てしまった溝は越えられそうにない。
勿論埋める手立てもない。

中学二年。
制服を着て入った大人の世界に馴染め切れず、さりとて子供にも戻れない。
受験はまだ先の話で、だが熱中していた部活自体が問題の場所となってしまった。
僕は行き場を失う。宙に浮いた気分で、町を歩く。
相談した顧問は最初「もっと熱中しろ」と言い、次には「少し休め」と言った。
「余計な事を考える暇もない程 頑張れればよかったんだがな」
どれほど疲れても発散しても僕の中の思春期は追い出せない。
「悪い影響が広がるといかん」 そして僕は伝染病患者だ。
だが治す病院を誰も教えてはくれない。

部活道具を足元に、僕は公園のベンチで途方に暮れていた。
無邪気に遊びまわる小学生を眺めている。
あんな頃が僕にもあった。
しかし。あんな頃既に僕の中に芽はあったのだ。
この思春期の。
「さぼり?」 斜め後ろから声が掛かった。
振り向くと同い年ぐらいの少年だ。両手をベンチの手に置いて僕を覗き込んでいる。
僕は慌てて立ち上がる、と同時に相手も腰を伸ばした。
そこで僕は知る。
彼は僕より上背があって、そして僕より大人だった。
どうして同い年だと思ったのだろう。彼の顔にはもう子供らしい丸みはなく、
思春期特有の半端な男っぽさもなく、直線的な面差しだった。
端正と無個性とどちらともつかず、それだけに表情で印象が全く違う。
僕を覗き込んでいた目は、子供みたく純粋に好奇心に満ちていたのだろう。
「ごめんね 驚かせた」 
僕は首を振る。咄嗟に言葉が出なかった。
「さぼりなんて言って悪かったかな。急に休みになる事もあるよね」
「自主休練です」
一瞬の間をおいて彼は大きく笑い出した。
僕が口にした休練という言葉をすぐに変換できなかったのだろう。
それはそうだ。そんな言葉僕だって聞いた事はない。
休部と言いかけ、そこまで長引かせたくないという思いがその邪魔をした。
「気分で?」
「顧問に……」
僕は唇を噛む。だからこれは自主ではない。分かっている。
黙ってしまった僕の腕を、彼は叩いた。
僕は体を硬直させる。それが伝わったのだろう、彼は再び「ごめん」と言った。
「いえ」 僕は焦った。「そうじゃ そんなじゃ」
「そう? よかったら気分転換に誘おうと思ったんだ。急ぐ?」
「……ように見えますか?」
彼はまた笑った。ドラマのセリフを真似たような僕の口調を笑ったんだ。僕は赤くなる。
その笑顔は色や音を感じさせない、何だか不思議な一枚の絵に見えた。
「僕はねえ 今受験生で 少々煮詰まってしまっているところなんだ」
「大学受験?」
「うん でも高校生でもない 浪人ともちょっと違う。勉強をちょっと休みたい」
「さぼり?」
「ふふ そうだね」
彼はベンチを回り込み、僕の横に立った。
より間近になり、僕は少しどきどきしてしまう。
彼は、なんというか、きれい、だった。
「もう一度座る? それともどこか入る? ケーキぐらいならごちそうするよ」
「いえ」 僕は地面に置いたスポーツバックに目を落とす。彼はそれで理解する。
「ああ そうだね。そう じゃ 公園を歩くか それとも僕の家に来る?」
「家?」
「といってもマンションで」と彼は周囲を見回し、その建物を見つけたのか手を挙げた。
いくつか並び立つ建物のひとつを指さしているようだった。
だがそのうちのどれかまでは分からないし、分かる必要もなかった。
「歩いて 5分 かな」
その言葉と、方向的に僕の家と反対だという事で十分だった。
「いいんですか」
「誘っているのは僕だよ」
僕は鞄を持ち上げる。

彼について歩いていく。彼は半歩前を行き、肩越しに僕を見る。
僕が遅れぎみだったのかも知れない。気恥ずかしくて彼と並べない。
初対面の中学生を自宅に招く彼の異様さに、その時僕は何も感じなかった。
あまりに自然で、小学生の頃に空き地でサッカーに誘われたぐらいの雰囲気だったのだ。
目指す建物群に近づくと、僕はマンションらしき入り口を見るたび「ここか」と思った。
上を見上げ、或いはエントランスの様子に、彼の家を想像する。
そういえば家族はどうしているのだろう。留守なのか。きっとそうだろう。
「ここだよ」と彼が階段の一段目に足を掛けた。
ワンルームマンションと分譲マンションの中間のように見えた。
僕は「ご家族の方 いいんですか」と訊いてみた。



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by officialstar | 2012-08-31 16:04 | DOLL

恵利加 3



彼の存在は私には興味深いものだった。
志望校の生徒である事に加えて、高校生での一人暮らし。
並外れた自炊能力。それでいながら生活感を漂わせない。
彼は私の知る中学生よりもっと男ではなかった。
変な表現だが、当時の気持ちそのままだ。
料理が上手というわけではない。
彼には男子特有の粗さも愚かさもなかった。
不在の父親も少し変だった。
父親が単身海外に出た後も彼はその寮に居続ける。
そもそもが家族では入れない筈の独身寮だ。
彼の家庭の事情を考慮してくれるほどの会社ならば、なぜ海外勤務を言い渡すのか。
私は後に、それは彼の父親から希望した事ではなかっただろうかと考えた。
そうでないまでも、与えられた拒否権を父親は行使しなかった。
彼の吐き捨てるような、どこか寂しげな「捨てられた」という言葉が裏付けとなる。

母が煮物を鍋一杯に作った日、私は戸棚の奥の大鉢にそれを取り分け、
何重かに包んで彼の家に運んだ。
彼はそれを彼の食器に移してテーブルに出したが、
食べ終わっても半分ほど残ったままだった。
「やっぱ おいしくなかった?」 私は訊いた。
彼の作るものが洋食寄りという事もあって、私は母より彼の料理の方が好きだった。
「おいしいよ」 彼は言った。「やっぱりという言い方は失礼だろう。美味しかったよ」
でもと私は残された煮物を見る。
「おいしいから後の楽しみにとっておく という事をしない?」 彼は訊いた。
「ええと」
「後でも明日でもおいしく頂けるだろう?」
「煮物だしねえ」
彼はそれを両手で、大事そうにキッチンに運んだ。
丁寧にラップをかける仕草は彼の言葉が嘘でない事を物語っていた。
「作った事はあるんだ」 彼は背中を向けて言った。
「え?」
「煮物とか。これ筑前煮って言うんだろう。材料揃えてレシピ調べて作った。
何か違うんだ。それに材料が余る。作っても食べあぐんで最後は捨ててしまう。
少しばかり作れないし 作ってもおいしくない。教科書の 薄っぺらな味しかしなかった。
これはお母さんの味だね お母さんの煮物だね」
「まあ ねえ」 意味が分からず私は言葉を濁した。
彼は悔しがっているのだろうと思ったが、声の重さはそれだけではなかった。
母親が恋しいのだろうか。一人暮らしの身が切ないのだろうか。
ずっと考えているが、答えは出ない。
私はそれからも度々母が作り置いた料理を運んだ。
そして彼が作ってくれるものを食べた。

「あと一年以上もこんな生活続けるんだ」 彼は言った。
自分の事ではない。私の事だ。
家族で囲む食卓もなく、友達と遊ぶ時間も殆どない。
塾がない日は習い事が入っている。
「だって 変なの 自分だってその学校に通っているのに」 私は言った。
彼がどれほど努力して高校に合格したか知らない。
入学後授業についていくのも大変だろう。しかし彼はそこにいるのだ。
その価値を認識せずに勉強など出来ない筈だ。
「君は何の為に あそこに行きたいと思う?」 
正面から訊かれ戸惑う。
何歳の頃からだろう? 大人達に訊かれる度、私は得意げに答えてきた。
その高校から目指す大学名、そしていつかは。
大人達が口にする賞賛と、私の頭に乗せられる父親の大きな手。
「負けないために」 私は言った。
塾に通い始め、犠牲にするいくつかのものを振り切る時、
親の言葉だけでは足りない事もある。自分の意志でなければならないと気づく。
「負け組になりたくない」
心の全部を言い表す事は出来ない。だが今は旗を振りかざすしかなかった。
「じゃ 僕は負けちゃうのかな」 彼は言った。
私は訊き返す。
「あの学校を選んだのは僕だよ。僕はとても成績が良かった。
でも成績表だけじゃ 何にもならない。父さんは機械的にハンコを捺すだけさ。
成績よりも父さんは僕に 外で たとえば野球やサッカーをして欲しかったんだろう。
けど僕は家から出たくはなかった。勉強が好きなわけじゃないけど
本を読んだり文章を書いたり その延長に学校の勉強もあって 僕は成績だけは良かった」
「すごいじゃない」 それであの高校に受かるならば。
「父さんは僕の成績なんて知りもしない。だから僕は狙える中で一番の学校を選んだ」
そして笑う。「ふふ そこが偶然一番近かった というのもあるけどね」
「近い?」
「往復一時間以下のところなんて そうはないだろう」
「バカじゃない あの学校をそんな理由で選ぶ人はいないわ」
「だね」 彼は笑いを広げる。「だから もう やめようと思う」
「バ……ッ」 バカじゃない? 私は叫びそうだった。信じられない。
「これも負け組?」
「逃げ出すんなら そうよ。何 授業がきついの? ついていけないの」
彼は笑うだけだ。
「周囲が勉強の事しか言わないの。競争相手ばかりなの」
「意外とそうでもないよ」
「じゃ なぜっ!」 たとえそうでも。


そして二学期を最後に、彼は学校に行かなくなった。
クリスマスに彼は招いてくれたが、私は行かなかった。
それきりその建物の方に足を向けた事もない。
どこかのコンビニで似た人を見かけたような気もするが、
中学に通う頃にはそんな事もなくなった。



恵利加 完
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by officialstar | 2012-08-29 15:39 | DOLL

恵利加 2


塩コショウと、何やらの香料だけで味付けされた鶏肉を食べて、
その日私は塾に行った。
授業を受けながら改めて「変な人」と思った。
初対面の小学生を家に上げ、食事をさせて何も訊かずに送り出す。
普通の高校生はそんな事はしないのだという認識は、私にもあった。
それが少し遅れて出ただけで。
気づきだすと、疑問な点は次々と出てくる。
そもそもあそこは独身寮で、働いてもいない高校生がひとりで住む事は出来ない。
となれば親と一緒な筈で、そうなるとその親は独身なわけはないから、
結局彼があそこにいるのはおかしい。
いやいや。高校生男児が料理が上手いのも変だろう。
それも有名進学校の生徒が。
会話を懸命に思い出す。母親の事を訊いたっけ。はぐらかされた。
でも母親がちゃんといたら料理なんてしない。
私の親も働いてはいるけれど、私は何も出来ない。
だから彼はお父さんとふたり暮らしなのだ。
でも私と食べてしまったらお父さんはどうするのだろう?
講師がいきなり私の名前を呼んだ。

彼に会いたい。会わなければならない。こんな疑問を抱えたままでは集中できない。
同じ曜日の同じ時刻なら捕まえられるだろうと思ったが、一週間は長い。
次の日、用意されていた軽食を詰め込んで、私は家を出た。
通りにあるコンビニの窓際で外を眺めて過ごす。
その日は時間切れとなり、だが週のうちには彼を見つけた。
店を飛び出し、追いかける。
一番近づいたところで「待って 待って!」と叫んだ。
自転車のブレーキが鳴った。振り返った彼に私は手を振る。
周囲の人が怪訝に振り返って行った。彼はすぐに「やあ」と言った。
「今日も塾?」
「この前はごちそうさま」
「今日はシチューが煮てあるよ」
「え?」 私は驚く。
彼は自転車から降りようとし、思い直す。
「場所分かるよね。ひとりで来られるね」
「いいの?」
彼は返事をせずに走り去った。私は小走りになる足を抑え、通りを行く。
約束は取り付けた。もう急ぐ必要はない。
私がドアホンを鳴らすと、着替えた彼が内側から開けてくれた。
室内には既にシチューの匂いが立ち込めていた。
白いのかと思ったら、これはビーフシチューだ。
彼は先にキッチンに戻り、鍋を掻き回す。
「慣れてるね」 会話の糸口を見つけようと私は言った。「どうして?」
「一人暮らしだからね」 彼は答える。
私が訊き返そうとするのを、彼は遮った。「パン 焼く? フランスパンだけど」
「えーと。焼かない」
「じゃ あとは並べるだけだな」
両手を拭くように腰を二度叩く。冷蔵庫を開けてボールと麦茶ポットを出す。
皿をテーブルに並べ、ボールからサラダを取り分ける。
パンを切り、そのままテーブルに出しっ放しにした。スプーンとフォーク。
ドレッシング。そして白い皿にシチューを盛り付ける。
その時は名前を知らなかった、緑の葉っぱをちょんと乗せた。
完璧だ。彼はそう口の中で呟いたに違いない。それくらいテーブルは綺麗だった。
「どうして?」
「まず いただきますだろう」
私は両手を合わせた。彼がスプーンを取ったので私もシチューを食べた。
「ねえ どうして」
「まず感想だね」
「おいしい」 私は肉を口に入れた。「柔らかい。高いお肉だね」
「すね だよ」
人参をスプーンの背で押したが、思い直して口に運んだ。
甘みと塩加減がいい。嫌いではないが苦手な人参だが苦なく食べられた。
「これって あれ? 箱で売ってるやつ? どこの?」
「自分で作るんだよ」 彼は可笑しそうに言う。「セロリが余って困るね」
「入ってる?」 あれは嫌いだ。だが皿にあるのは肉と人参とマッシュルームだけだ。
「嫌いなら サラダのセロリ よけていいよ」
私はサラダの皿を引き寄せフォークの先でセロリを探した。
「父さんは外国だ」 彼は唐突に言った。
驚いて顔を上げる。「いつから」
「この春」 その声に含まれていた感情を、私は今でも分析できずにいる。
シチューの味以上に複雑に、いろいろなものが混ざり合っていた。
「でも じゃ 自分が食べたくて? ええ 半年足らずで?」
「その前からも家事はやってたけどね。食べたくてというよりは」
彼はそこで黙ってしまった。私はレタスを突き刺しながら「よりは?」と促した。
「いや。料理は実験みたいで面白いよ」
「じゃママが苦手なのも分かる。あの人 いつも自分は文系だって言うから」
算数の問題を訊こうとするたびそうやって逃げる。
「パン お替り要るなら 切るよ」
「ううん あんまりお腹いっぱいにすると眠くなる」
家を出る前に軽くとはいえ食べている。
「でも 何 お父さん 急に決まったの? 高校決まってから分かったの?
外国ってどこ。ついていこうとは思わなかった?」
「どこかなんて言っても分からないよ。学校も多分ないようなところ。
入学式の暫く後に知らされた。どうするか訊かれたけど どうしろと言うのだろう?
僕に何もかも捨てろと?」
「折角合格したのにね」 最後に残しておいた肉を口に入れた。
「まあね」 彼はまだ残っている自分の皿を手に立ち上がる。「そうして僕が捨てられたのさ」
私はまだ肉を呑み込めずにいた。




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by officialstar | 2012-08-28 11:54 | DOLL

恵利加 1


その制服を知っていたのは、その高校が有名だというだけじゃなかった。
私が受験しようとしている学校だったから。
当時私はその学園の中等部目指しての受験勉強中だった。

学校は隣の駅にあり、ここからは自転車でも通える。
しかし近辺でその制服を見かけた事はなかった。
彼を見た時、思わず目で追ってしまったのはそういうわけだった。
私は小走りに通りまで行き、その背中を探した。
次の角を曲がっていく。
それ以上に追いかけてどうするつもりだったのか。
毎日頑張ってはいたけれど、近づいてきているように思えない目標に
もしかしたら彼の姿が重なったのかも知れない。
彼を現実に捕まえる事が出来たなら、私の夢も叶うんじゃないか。
私はそのまま角まで走り続けた。そして止まる。
彼が自転車を引いて門をくぐるのを見つけたのだ。
ではあそこが彼の住まいなのか。マンションにしては冴えない建物だ。
近くまで行って、門に下げられた札を読む。
会社の名前と、その下に独身寮という文字があった。
ぼんやりと言葉を反芻していると、門から彼の顔が覗いた。
「何? 何か探し物?」
「えっ」
「誰かの家 探してる? ここに知り合いがいるの?」
私は首を振る。彼は、ああそうと顔を引っ込めようとした。
「それっ」 私は慌てて言った。「その制服」
「うん?」 彼の頭は一度見えなくなったが、私が一歩踏み出そうとした時に門から出てきた。
「その制服」 私は校名を早口に言った。「だよねっ」
「だよ」 彼は言って自分の身体を見下ろした。
夏服だが、そのカッターの胸に校章が刺繍されている。特徴はそのズボンにあった。
靴のかかとを地面につけ、つま先を持ち上げる。鞄を前にぶらつかせた。
それも学校指定だ。
「で?」 彼は言う。
「私 受けるの」
「君? ああ 中等部ね。6年生?」
「5年。でも夏休みも毎日塾だったよ。去年からそうだよ」
「では来年の夏もって事。大変だね」
「けどっ いい学校なんでしょ」 私は言った。
会話を続かせるための媚びでもあった。自分の学校をよく言われて怒る人はいない。
だが彼は顔を歪めた。それは笑顔であったのだが、楽しそうには見えなかった。
「いい 学校 ね」 彼は私を見るために引いていた顎を上げた。
つられて私も上を見る。
9月だが、空はまだ夏空だ。青い。ああ。青い。私は雲を見た。
ゆっくりと動くそれを追っていて、彼の動きに反応が遅れた。
門の中に戻ろうとする彼の袖を、私は掴んだ。
「何?」 彼は意外と、おっとりとした雰囲気で訊いた。
それが救いだった。私に彼を引き止める理由などなかった。
「僕は高校からだから 中学受験の秘訣なんて教えられないよ」
高等部の受け入れもあるが、狭き門だと聞いていた。
そもそもが中高一貫で教育指導をしているので、入ってからが厳しい。
「そっちこそ大変じゃない」
彼は笑いながら「小学生に心配される程じゃあ ない」と言った。
私の手を取ってシャツの袖から指を外した。私はそこでバイバイと言われると思った。
だが彼は「今日は? 塾は」と訊いた。
まだ時間はあった。行く前にどこかで何か食べようと思っていた。
母はパートで家にいない。その日は食事の代わりにお金が置かれていた。
「7時からだもの」
彼は建物に向かって歩き出す。私は後をついていった。
扉のところでも彼は帰れとは言わなかった。一緒に入る。
古びた建物の中はひんやりした空気が流れていた。
「裏庭に木が植えてあるから 涼しいんだ。僕の家はここだけど」
ドアに鍵を差し込む。
「上がってもいい?」
鍵が回る。「君がいいならね」
短い廊下をまっすぐに食堂に入る。テーブルに鞄を置き、彼は奥の部屋に消えた。
私は勝手に椅子に座り、室内を見回す。
建物が古いというだけではない。どこか殺伐としていた。
Tシャツとジーンズに着替えてきたが、雰囲気はあまり変わらない。
「さて」と腕まくりのふりをする。「何か食べる?」
「え?」
「7時から10時くらいまで だろう 塾」
彼は心得ていた。大抵の子は夕食を済ませて来る。帰ってから食べるならそれは夜食だ。
「僕のついでに作るよ。食べられないものは?」
「グリンピースとしいたけと ……ちょ ちょ」 私は腰を浮かせ、片手を振った。
「肉は何でも?」
「作るの?」 彼を指さす。
「作るの」 彼は頷く。
「お母さんは? あ 仕事?」
「ここは独身寮」
「だからあなたがいるって? 冗談」
「でもないんだけどね」 背中を向けて冷蔵庫を開ける。
彼は実に手際よく作業した。
私は料理などした事はなかったが、動きに無駄がない事は分かった。
流れるようと言えば伝わるだろう。
「すごいね」
「すごいさ」
彼はサラダを出した。グリンリーフの緑と生ハムのピンクとスクランブルの黄色。
その上にプチトマトを乗せた。
鶏肉を焼く。冷凍庫からご飯を出してレンジに入れた。
全部並べると彼もテーブルに着いた。
「インスタントだけど スープ要る?」
「ううん」 私は早く食べたかった。空腹だからではない。味が知りたい。
人の家でご飯を食べるなんて普段ない事だし、何よりそれは高校生の手料理なのだ。
いただきますもそこそこに頬張った。
「おいしい」 
色も衣もついていない鶏肉は、私の知らない味がした。



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by officialstar | 2012-08-25 11:41 | DOLL

正敏 4



弟は前と同じように椅子に座っていた。
人形と分かっているからなのか、以前ほどの違和感はない。
よそよそしさも、ない。
傍に寄って瞬きしない目を覗き込んだ。ガラスの反射なのか潤んで見えた。
唇は何かを喋り出す寸前の、少し緩んだ口元をしていた。
彼に似ている。
弟だもの。
数歩下がって全身を改めて見る。
白いシャツと黒いズボン。まるで何かの制服のよう。
「お年玉で 服を買う予定だったんだ」 彼は言った。
その上下は人形師が着せたままの服なのだろう。彼は悔しそうだった。
着替えを何枚も買えるまで小遣いを貯められるのは随分と先だ。
高校は私立の進学校だからバイトも出来ない。
「入学祝もきっと品物でしか貰えない。父さんはまだ怒ってる。ずっと怒ってるだろう」
「僕の」 僕は言った。「いや 僕のじゃ小さいかも。兄さんのおふるならある」
彼を見る。古着なんて嫌かも知れない。大事な大事な弟なのだから。
しかし彼は期待を込めて僕を見つめていた。
「僕の押入れにある。それでよかったら持ってくる」
「いいの?」
「全部なんて 母さんだって覚えてないさ。適当に選ぶよ」
「いいんだね? 頼めるんだね?」
「どれくらい傷んでるか 知らないよ?」
「いいよ。嬉しい。僕のは引っ越しの時に全部…… ああ よかった。本当に?」
「明日 塾の前に寄る」
帰って探したいからと僕はその部屋を出た。
戸口で時間が途切れる。自分が緊張していた事に気づく。
あの部屋は、あの空間はこことは繋がっていない。
建物を出て道を急ぎながら、僕はそんな事を、そういう言葉じゃなしに噛み締めていた。


その後数回は通ったと思う。
最初に届けた衣類以外に、たとえば本や流行のカードなど。
彼が要らないと言えば持ち帰ればいいと運んだそれらを、彼はどれも喜んだ。
まるで弟がその部屋に本当にいるかのように。
そうではないと分かっていても僕までが錯覚に陥る。

昨年まで家にあった小さな人形を、父親が供養に出したと言う。
彼はそれを大事にしていた。大事にし過ぎて父親を心配させた。
父親は彼を医者に診せカウンセリングを受けさせ、環境を変え、人形を取り上げようと試みた。
その全部に彼は傷つけられてきた。
供養に出す交換条件として彼はそれを作った人形師の連絡先を聞き出した。
一番よい供養の仕方を訊くためだと。
彼はそうすると同時に新しい人形を注文した。
「これは僕の弟だ。僕だけの弟だ」 彼は言う。
弟の不在が何ヶ月に及んだか、僕は知らない。彼にとっては辛く長い日々だったのだろう。
取り戻すように愛おしむ。
何回か、何時間かの訪問の間にもそれは痛い程に伝わってきた。
それは人形だと何度も口まで出かかった。
現実じゃない。人形は現実の彼を援けてはくれない。ぬくもりもくれない。
話し掛けても返事ひとつしないじゃないか。
彼は僕を蔑ろにはしなかった。僕がいる間は僕の話を聞いてくれていた。
しかしそれでも僕は、彼の心の大半が人形に奪われているのを感じずにはいられなかった。
僕に話をさせるのは僕の声を弟に聞かせるため。
僕を迎えるのは弟に同年代の友人を得るため。
何度も僕はもう行くのをやめようと思った。
自分が辛かった。彼を嫌いになりたくなかった。弟の事など好きになれるわけもない。
だが知らない間に弟に届ける本を選んでいたりする。
彼の喜ぶ顔が脳裏に浮かぶ。彼の味方は僕しかいない。


訪問をやめたきっかけは定かではない。
風邪か用事で途絶えたそれを、復活させなかったくらいの事と思う。
僕は僕の心に蓄積されていった苦味を覚えている。
変わっていく彼を僕は受け容れられなかった。
それは多分高校進学を控えた彼の、年齢的変化だろう。
子供から大人への変身。
出会った頃の、その後を知った今では爛漫とすら思える表情が、彼から消えた。
父親に殴られた赤い頬は、もう彼の顔に連想できない。
届いたという制服を見せて貰った。
スーツにネクタイ。大人のようだった。
「ステイタスだね」 特徴ある格子のネクタイを手に、彼は言った。
皮肉になげやりな物言いだった。
そしてそれは彼が僕に見せた最後の、子供らしい口調だった。



正敏 完
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by officialstar | 2012-08-22 19:21 | DOLL
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小説


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