烏鷺

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カテゴリ:無題( 12 )

無題 act12

里香は柳原の名前を呼んだ。
いつも呼んでいた名字の方ではない。下の名前。
唇に新鮮なその響きを、何度も繰り返した。
シーツを掴み、胸に抱き、今ほど傍に居て欲しいと思ったことはないと、
切実に祈りを込めて柳原の名を唱える。
だが彼はもう里香を守ってはくれない。
声は受け取り手を求めて彷徨い、宙に消える。

ピアノの音を聞く。違う。里香はすぐに気づく。
雨の音だった。
里香はベッドから下りて窓を開けた。
雨の降り出しに乾いた街が立てるあの匂いが入ってきた。
じきにそれは雨の匂いとなり、その湿度を里香は吸い込んだ。
細胞が貪欲に水分を吸収していく。
血を洗い、ひりついた傷をわずかにながら癒す。
柳原に貰った傘を思い出した。ベッドに戻り足元に置かれたままのそれを取り上げた。
雨雲の下で、その青は憧れを誘う色なのかも知れない。
重い空がもたらす憂鬱を少しは晴らしてくれるだろう。
高みを仰ぐような、濃い青。
カバーを脱がしベルトを外した。さらりと流れる生地。
里香は手を入れて金具を探り、開いた。
その途端。
零れ落ちる色。無地と信じたその傘の、その華やぎを、刹那里香は認識できないでいた。
見上げた目に青い花々が映った。
青い表地の裏側一面が、花で埋め尽くされていた。
里香は吸った息を吐けない。胸に詰まるものを吐き出せない。
幸福であるはずのその色の洪水が里香を窒息させる。里香は傘を支えていられない。
力なく落とした両手の間で花々は揺れている。
開いた傘の内側にだけ広がる花園。里香だけが見る夢の花。
里香はベッドに崩れるように落ちた。傘は手を離れ床に弧を描く。
柳原に送ったメールの文面が頭の中を駆け巡る。

傘をありがとう。青い 傘を。

自分がどれほどに柳原を傷つけたか、傷つけてきたか、思い知る。
取り戻せると、愛情のかけらもないまま信じた自分の愚かさと傲慢を知る。
壁を作って決して踏み込ませない。
あの傘は、それでもそれを皮肉とつきつけたものではないだろう。
花の色の優しさ、柳原の言葉通りの軽量さ、なめらかな差し心地。
梅雨を控えて恋人の日々を少しでも彩りたいと願う気持ち。
柳原は吟味し、開いた時の里香の叫び声を想像してそれに決めたに違いない。
陰鬱な雨の日にも里香が花に囲まれていられるように。
突然の降雨に里香が濡れなくて済むように。


里香は両手で顔を覆い、ずっと座っていた。
室内には闇が忍び込んできていた。
熱はすっかりひいたようだった。
だが柳原と杉崎の残像に交互に責め苛まれ、里香は消耗していた。
杉崎に抉じ開けられた傷口の癒しを柳原に求める事は出来ない。
血を流しながら里香は自分で探さなければならない。
男たちに悪意が不在である事が余計に里香の心を蝕む。
みちるも彼女を助けてはくれないだろう。
誰にも彼女を助ける事など出来ない。
里香は螺旋の中にいた。杉崎が去り柳原が去り、杉崎が現れ柳原が語る。
それぞれの言葉は摩耗して意味を失う。
疲弊が無心を呼び、冴えた一点を自分の中に感じた。
その光を目指して錘のついたロープを降ろしていく。
わずかに揺れながら少しずつ静かに、それは里香の中央を通る。
光を見つめるほどに闇は濃く深くなっていく。
だがその深さは霧の濃度に似て里香を落ち着かせる。
抱かれて束の間安らぎを得た。
微風が髪を撫でた。
気配を感じた。里香は肩を強張らせ、掌の結界を緩めた。
隣には誰もいない。
手と顔の間に新しい空気が入り、呼吸が少し楽になる。
隣には誰もいない。
安堵の後に里香は急激に孤独を感じた。世界でひとりきりになる。
姉は来ない。姉はもう来ない。背後に壁もない。
耐え切れず手を下に降ろし、シャツの裾を掴んだ。
姉がいた。
里香の正面に姉が立っていた。
髪を巻き美しく化粧をした、夏色のワンピースの姉が。
里香は懸命に目を凝らす。そうしないと逸らしてしまいそうだった。
姉もこちらを見つめてくる。黒い瞳に里香を閉じ込める。
あでやかな姉。それがみちるの選んだ服で着飾った自分と里香は気づかない。
その髪もワンピースも全部里香のものだったのに。
姉が一歩里香の方に踏み出した。里香はみじろぎするが、逃げない。
更に近づいてきた。里香は瞬きもせず、それを見つめる。
彼女を正面に見るのはこれが初めて。
里香はこれまで誰をも正面に見ようとしてこなかった。
自分に向かってくる影を真正面に迎える事は逃げ出したくなるほど恐ろしかった。
満身の力を込めて、目を背けぬよう、耳をふさがぬよう、顔を伏せないよう自分を制する。
一杯に見開いた目の表面が乾き、痛みを訴えた。
涙が眼球を覆う。
ぼやけた視界の中で姉の髪はほどけていく。化粧は肌に溶け、素顔へと変わっていった。
ワンピースの色は周囲に散じて香りとなり、
真っ白な姿になって里香に歩み寄る。
それは紛れもなく、今の自分だった。
無意識に里香は掌を向ける。姉の歩みは止まらない。
里香の手を通り抜け、そして里香を通り抜け、その背後へと去る。

伸ばした両手で里香は自分の身体を抱いた。
瞬きが、眼球の潤いを頬に押し出した。
一粒落ちたそれは呼び水となり、涙が溢れた。
里香は泣く。最初は声もなく。
だがじきに嗚咽となり、やがて子供のように大声で泣き出した。
構わない。自分はひとりだ。ひとりきりなのだ。
隣にはもう誰もいない。


里香はひとり、泣き続けた。







完     






リクエスト下さったちやこ様に感謝を
そして読んでくれたすべての人に
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by officialstar | 2012-06-18 15:25 | 無題

無題 act11



水分も摂れなくなったら救急車を呼ぶつもりだったとみちるは言った。
微熱はあったが、意識はしっかりしていた。
みちるに支えて貰ってベッドから降りた。
水平から剥がされて体はふらついた。足元を見ながら洗面所に向かう。
最後の体力を使い切ったらしい、ひどい顔をしていた。
里香が洗面所のドアを開けると、みちるがキッチンから駆け寄った。
それを断ってひとりで歩く。自分の歩く姿を想像して笑った。
笑いながら顔を上げる。
目に飛び込んだのは、白い床に散る血の痕だった。
声ならぬ悲鳴を上げて立ち竦む。
背後から見守っていたみちるが手を伸ばした。
よろめいた里香の身体がみちるの肩にぶつかった。
倒れはしなかったが、膝が震え出すのを止める事も出来なかった。
「里香?」 
みちるの声と掌が里香を現実に引き寄せた。
里香は呼吸を取り戻し、瞬きの仕方を思い出した。正しい認識がなされる。
血ではない。
白いのは床に散らばった紙。
赤いのは何枚かを束ねたクリップの色。
「何…… あれ あれは」
みちるは里香をベッドに座らせる事を優先した。
その手に抗って里香は白い海の方へ行こうとする。
「あれは あれよ 里香の書いたメモ」
「メモ?」
抵抗をやめ動きを止めた里香から注意深く手を離し、メモ用紙の床に歩み寄る。
クリップのひとつを指で摘んだ。
「触るなって言われてるんだよね」
「誰に」
「あの子。杉崎?」
「杉崎くんが何。どうして」 
みちるはクリップに挟まれたメモの束を差し出すが、里香は返事を待つ。「杉崎くんが?」
早く受け取れとみちるはそれを振った。
里香は細い線の文字を読む。自分の筆跡だ。目は単独で文字を拾い単語に出来ない。
だが間違いなく自分の字だった。
紙の散らばる床に目をやった。中央に蓋を開放された段ボールがあった。
これは。そうだ。これはレポートのために書き散らしたメモだ。
封印して箪笥の陰に押し込んであった。
「どうして」 里香は呻く。
みちるは携帯を開き、だが通話はせず時計表示を見た。
「もうじき本人来るから」
「杉崎くん?」
「本人から聞きなさい」
両手で里香の肩をつかんで自分に意識を向けさせる。
その集中を途切れさせないように発音を明瞭に、言った。
何度かけても里香の携帯が繋がらず、杉崎に様子を見て来てほしいと頼んだ。
駅で待ち合わせて鍵を渡し、バイトに行った。
余計な事だったかも知れないが、結果それで脱水に至らなかったのだ。
言い訳でなく客観的にみちるはそう告げた。
「だからといって 勝手に」 里香は段ボールを見る。
「許可は貰ったと言っていた」
里香の震えは治まらず、みちるは布団に寝かせようとしたが里香は拒んだ。
上着を肩に掛け、両手でその肩を覆う。
「そもそもが どうして杉崎くんに頼んだりなんか」 里香はうつろに言う。
それからみちるを見据えて訊いた。「……最初からそうでしたね みちるさん」
「うん」 
追及しようとして、しなかった。答えはその時も今も同じだ。
みちるは言う。「あの子のパンを食べただろう」
「おなかが空いていたんです」
「うん」 みちるは里香の肩を擦る。腕を撫で下ろす。
杉崎が来るまでそうしていた。
彼は慣れた様子でドアを開けて入って来た。
「どう。もういいの? 起きてて?」
「段ボールの事 訊いたって言ったよな?」
「言った」 パンの袋を芝居めいたしぐさで置く。「いいって言った」
「私?」
「あ 頷いたんだったかな」
窓を開けようとして段ボールに気づいたのだと杉崎は言った。
白で統一された、無駄なもののない室内でその段ボールは異質だった。
無性に中身が気になった。開けていいかと訊いたら、里香は頷いた。
「底まで紙で。一枚だけ読んで片付けようと思ったんだけど 面白くてさ」
「嘘」
「ごちゃごちゃに入ってたから そういうの我慢できなくて 俺理系だから」
「いやいやー」 みちるが言い掛けて慌てて口を噤んだ。
「あれ 本の感想 みたいなもんだよね。前に言ってた課題のやつだよね。
本ごとに整理したらいいのにって分け始めたら 夢中になってさ。
どうせなら全部やりたいじゃない? クリップも ほら」
鞄を開けて袋を出した。「買い足したんだぜ」
里香は杉崎の手から袋を取り上げて、杉崎に投げつけた。色とりどりのクリップが散った。
大きめだった赤いクリップとは違う、小ぶりのダブルクリップ。
「帰って!」
「里香」 みちるが叫ぶ。杉崎は口を開けただけで声を出せない。
「帰って。呼ばないって言ったじゃない。帰って! 二度と来ないで」
テーブルに置かれたパンの袋に手を伸ばす。
みちるがその腕を掴み、反動で中からパンが零れ落ちた。
里香はそのひとつを取って杉崎にぶつける。
一瞬避けようとした杉崎は慌てて両手でそれを受けた。
「おま…… パンだぞ! 待て 待てって。俺 何かした?」
「帰って! 出て行って! 二度と! こんなもの!」 両手でパンを掴む。
みちるは里香と杉崎の間に身体を入れた。
里香を押さえ、肩越しに杉崎に帰るよう言った。
「ごめん。また連絡する」
杉崎は鞄を抱えた。ドアまで行って振り返る。
「俺 来るぞ。来るからな! 途中でやめられるか!」
「来るな!」
ドアの閉まる音を聞くまで、みちるは里香を押さえ込んでいた。
靴の音が遠ざかっても、力を緩めこそすれ、里香を離さなかった。
パンを握りしめた里香の手がシーツに落ちるのを見て、力を抜き、
逆に里香に凭れ掛かった形になった。
そして突然笑い出す。
「里香の怒鳴り声」 苦しそうに笑う。「初めて聞いた」
笑うみちるが憎らしかった。里香は腕を振って束縛を解いた。
どうして笑えるのか分からない。
里香はベッドにあったメモを取り上げ怒りに任せてクリップを抜き取ろうとした。
みちるがそれを止める。真顔に戻っていた。「駄目だ」
「どうして。勝手にこんな」
「待て」 里香の指の間から用紙を抜き取り、クリップを止め直す。
「私のものだわ」
「大事なのか」
「違います。ただのゴミです」
「ゴミなら捨てるだろ」
「捨てます」 里香はベッドから出ようとした。
みちるはその手を掴んで引き戻す。
「捨てるのはいつでも出来る。いつでも出来るのに 捨ててないし」
山の傍に屈み込むと束になっている分を集めた。
クリップで留められたものはそれ程もなかった。
手持ちに幾つもあるわけもない。
最初に見た時は血だらけに見えたが、たかだか5個のクリップだった。
「確かめてご覧。言ってただろう? 本ごとに整理する」
みちるは一枚目を注意深く読んだ。そして二枚目を捲る。
「さっぱりだが どうだ」 里香に差し出す。
里香は受け取らない。
「タイトルも日付もない」 みちるは言った。
「入れてないもの」
「じゃ」 扇ぐようにそれを振る。「どうやって?」
リストの百冊全部は読んでいない。長期休暇など提出のない期間もあった。
それでも50はゆうに越える。
テキストのリストもない。用紙やペンは何度か変えたが、10にも満たない。
メモの文章にしか手がかりはなかった。
それを杉崎はとりあえず3枚から5枚ほどの束を5つまとめたのだ。
手ごたえを覚えたのか、最後までやると言い切った。
里香の感情の波が静まるのを待って、みちるは帰って行った。
暫く伏せていたが、起き上がり、パンをテーブルに並べた。
並べるだけ並べて、ペット飲料を飲んだ。
それからメモを見る。
一枚目を読む。最初は何か分からない。読み返して本のタイトルを思い出した。
途端にその時の心情が流れ込んできた。
二枚目を読む。時間を越えて当時の自分とシンクロする。三枚目。
それ以上続ける勇気は里香にはなかった。
ベッドにメモを投げる。クリップが跳ねる。
血だ。里香は両脚を抱え膝に顔を埋めた。赤い血だ。
杉崎は無邪気に里香を切り刻もうとしている。





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by officialstar | 2012-06-18 11:11 | 無題

無題 act9

みちるに続いて柳原が姿を現した。
里香は口の中で叫んだ。
みちるはごく自然に「どう?」と訊く。
杉崎は立ち上がり、椅子を誰かに譲るように僅かに向きを変え、「寝てました」と言った。
みちるが柳原を振り返る。里香は柳原を見上げ、手元に視線を落とす。
「これを渡したかっただけだから」 柳原は筒状の包みを里香に差し出す。
里香を見つめながら、同時に杉崎にも言っていた。
受け取ったそれを里香は持て余し気味に眺めた。
「誕生日だよ 忘れてた?」
「え?」
改めて両手を見る。
「開けて」
「でも」
「開けて」 柳原は繰り返した。里香はみちるを覗う。みちるは頷いて促した。
その背後から杉崎が見守っている。
里香は包みを開いた。紙の音が室内に響く。
傘、だった。
折りたたみの、青い、傘。
夏の、濃い空の色。雲と対比してますます青く映える空の色。
木製の柄に陶器でラインが入れられていた。
カバーの縁取りは読み取れないがブランド名のようだった。
「私」 里香は柳原を見上げる。
柳原は上から言った。
「君が生まれてきた事に感謝する僕の気持ちだ。
いつも長い傘を持て余してただろう? これはとても軽い。
人生晴れの日ばかりではないけれど ね 誕生日おめでとう」
柳原の声は里香を包む。
その肩を見、腕を見、手首を見た。細く長い指を見た。
薄い腰の線も長い脚も主張のない関節も、全部が好きなのに。
「俺 帰ります」 杉崎は一歩で自分の荷物まで飛び、それを肩に掛けた。
柳原が、自分にその権利があるという口振りで杉崎を止めた。
「僕が帰る」
里香を見て声を優しく落とす。「渡したかっただけなんだ」
追い詰められて里香は口を開いた。言わなくてはならない。ありがとうと。
だが口から出たのは、ごめんなさいだった。
柳原は指先で里香に触れて部屋を出て行った。里香の手の中に傘が残った。
ドアとベッドの間で行き惑う杉崎に、みちるがパンの袋を振った。
「持って帰るんでしょう。里香はこんなに食べないよ」
杉崎は鞄を置いて袋を広げた。暫く覗いた後、里香に差し出した。
「食べられそうなの どれ」
今は何も喉を通りそうになかったが、甘そうなパンをひとつ選んだ。
杉崎は「いいかも知れない」と言った。「元気になる」
パンの袋を鞄に押し込み、玄関に向かう。

怒ってる?とみちるは訊いた。
「これが血を流すという事なのですか」
「違う」 みちるはすげなく言う。
みちるを問い詰めたいと里香は思った。問い詰めるべきだった。
或いはみちるもそれを待っている。
だが彼女が答えを持っていると分かって、問うのは虚しかった。
最初から認めている敗北を再確認するための行為に過ぎない。
全て理解したふりをしてみちるを許す事だけが、里香に出来る抗議だった。
「飲み物とか いろいろ お金を払わないといけません」
「見舞いでいいよ。誕生祝いでも。たいした額じゃない。絵を借りる礼?」
「悪い絵じゃありません」
ベッドの傍に寄って里香の頭に手を乗せた。
「人は絵の中に入れないよ。パン 旨かっただろう?」
「味なんて分かりません」
「そのパンが」と選んだ甘いパンを指差す。「食べられたら 次は野菜スープな」
里香は拗ねた子供の気分になる。
それは決して不快なだけの感情ではなかったが、認めたくない思いでもあった。
食べかけのロールパンを手に取り、齧った。
里香はそれきりパンを食べなかったが、みちるは夕食用にスープを作った。
温かいスープに汗が出た。着替えをして横になった。
みちるはパンとペットボトルをテーブルに置いて、帰って行った。


携帯を開き、画面を見つめる。
メールではいけない。分かっている。会って話すのが誠意だろう。
しかしそれは憂鬱な事だった。
ベッドに座り脚を抱え、手にした携帯を軽く振る。
動作を繰り返すうち、
その手がポンプの柄となって里香の奥から怒りを汲み上げた。
愛せない事が罪なのか。
一緒に過ごす事にそんな大層な理由が必要なのか。
潜るシーツが心地いい。見上げる天井の色がいい。
それだけで充分ではないか。彼だってその時間を愉しんでいる。
指の間を携帯がすり抜けた。ベッドに置いたままの傘に当たった。
里香はシーツを引いて、それらを手繰り寄せた。
傘だ。
確かにこの色は自分の好みではない。
きれいだとは思うが、柳原が自分に見ている色とも思えない。
どうしてこの色を選んだのか分からない。
でもどうだっていい。傘としての役割は果たしてくれる。
雨から私を守ってくれる。そう。
守られる事の何がいけない。雨が降れば誰だって濡れる前に傘をさす。
彼が私を守りたいと言うのなら、その広げたコートの下に入る。
それのどこがいけない?
みちるは柳原が好きだからあんな事を言うのだ。
私に彼が駄目なんじゃない。柳原に私がいる事が許せないんだ。
里香は傘をシーツに放る。
その傘を長い間眺めていた。

携帯を取り上げキーを打つ。傘 ありがとう。きれいな青ね。

そしてまた吐き気に襲われた。


お大事に。
夜半過ぎの返信を、里香は朝、確認した。
その文字はどこかよそよそしかった。里香は寝転んだままそれを見上げた。
杉崎の事が誤解されたのだろうか。
ずっと返信しなかった事を怒っているのかも知れない。
里香は作成画面を開いて親指を彷徨わせた。だが何も浮かばなかった。
良くなったら説明しよう。今は考えたくない。時間はあるのだ。これから取り戻せる。
柳原を失う事はやはり出来ない。まだやり直せる。いくらでも。
愛せないことの罪悪感は自分を優しくするだろう。
柳原と旅行に行き、彼が望むのならこの部屋に泊めてもあげよう。
そして愛する努力もしよう。
杉崎の置いていったパンを齧る。
甘みが口蓋に広がった。「元気になる」と言った杉崎の言葉と一緒に飲み下す。
二口目を食べ、枕元に用意されたスポーツ飲料を飲んだ。
あまり合わない。
立ち上がってみる。床を踏みしめてキッチンに行った。
冷蔵庫から緑茶のペットボトルを取り出した。テーブルに置いたところでインターホンが鳴る。
みちるか。昨日は鍵を持っていかなかったのだろか?
里香は玄関に行き、ドアを開けた。
杉崎が立っていた。



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by officialstar | 2012-06-18 10:25 | 無題

無題 act10



里香に何も言わせず、パン屋の袋を顔の前に突き出した。
「メロンパン」
呆気にとられ、そして笑い出す。しかし長くは笑っていられない。
酸欠のようにめまいをおこし、戸口に凭れかかった。
「ごめん」 杉崎はその腕を支えた。
両手で里香の腕を掴み、背後から押して室内に入れる。ベッドまで連れて行って座らせた。
「ごめん。いろいろ」
「私 髪を洗ってないの」
「うん?」
「だからあまり人に会いたくない」
「俺 一週間くらい平気だよ?」
杉崎が持ち上げた布団に脚を潜らせて横になる。
「お詫びにメロンパン潰しておいてあげるからね」
杉崎は真剣な顔でパンの袋を両手に挟んだ。里香と目が合った。
「柳原さんと話した。高谷と似てる」
「嘘」
「顔じゃない」
「いつ。何を」
「昨日 追いかけて。いや 誤解されたくないだろうって思ったから」
「柳原さんは何て」
テーブルにパンを置き、手で押し潰す。
「分かった いや? 分かってる って。
怒っているのは自分の狭量にだって。彼 怒ってた?」
「怒ったところ見たことないから分からない。でも そうね」
「彼氏がいるなんて聞いてない」
「あやは高谷さんが好きだから」
ちぇと言ってパンを袋ごと里香に渡した。
里香は指で硬さを見て杉崎に押し返す。杉崎はこぶしで叩いた。
「こんなところ見られたら 申し開き出来ないわ」 本気じゃなく言った。
「来てもいいと言われるまで来ないって」
「どうして」
「さあ? 俺と違うからだろう」
杉崎が差し出したそれを、里香は今度は受け取った。
袋の上に出して指先で小さく割った。懐かしい味がした。
「今日の二限は休めないな」 時計を見ながら杉崎が呟く。
里香はベッドから降りた。熱もなく足はしっかりと床に立った。
玄関で杉崎は「また来る」と言った。
「呼ばないわよ」 里香は言って鍵を掛けた。

メールも来なかった。
夕方みちるが来た。大学で柳原と話したと言った。
「体調の報告だけして欲しいって。今日はどう? 何か食べた?」
「杉崎くんがメロンパンを買ってきてくれました」
野菜ジュースも飲んだ。気休めにはなる。
みちるが牛乳を温めてくれた。
「週末大人しくしていれば月曜日から行けると思います」
「そう言っておく。他には? 他に何か伝える事は」
里香は少し間を置いた。
「何も」
みちるの視線を額に感じる。里香は顔を上げて挑むようにみちるを見た。
誰への思いなのか分からない。みちるは苛立ちと切なさを目に浮かべる。
「おにぎりを買って来た。無理しなくていいけど 米粒の方が力が出そうだから」
「そうですね。甘いのはもういいです」
里香に着替えさせると洗濯物を袋に入れ、みちるは帰った。
その夜、柳原からメールが来た。「今話せますか?」
里香は自分から電話を掛けた。
少し乾いた声で柳原は出た。僅かに空いた間で喉を湿らせ「どう?」と訊き直す。
里香は「悪くはない」と応えた。そして前日の礼と詫びを言った。
「誕生日なんてすっかり忘れていたわ。傘 本当にありがとう」
柳原は何かを待つように返事を遅らせた。
里香にはもう言う事は残っていなかった。
「会って話そうと思ったんだ。会って話すべきだと思う。だが」
「柳原さん?」
背中を風が通る。よくない展開だと里香にも分かる。
はぐらかすべきだと思い、遮るべきだと思い、しかし何も言えないでいる。
「顔を見てしまったら言えないから」
「誤解 はないのですか」
「これを誤解だと言うのなら 僕がずっと感じていた不安は何なのだろう。
僕は君が好きだから 信じたいものだけを見てきた。
僕は今でも君が好きだから 本当は別れたくなんかない」
「みちるさんに何か?」
「みちる? ああ 体調の確認はしたよ。今だって決してよくない事は分かってる。
だから本当は待つべきなんだろう。
でも回復して 次に会ったなら 僕はただ抱き締めてしまうだろう」
「それで 今 なんですね」
「里香」
「悪いのは私 なんですね」
「違う 君は」
里香は耳から電話を離した。そのまま電源を切る。
別れたくないのなら何故? 誤解していないと言うのならどうして今?
抱き締めたいと思うなら存分にそうしてくれたらいい。
私はやり直す決心をしたのに。
里香はベッドを出て浴室に入った。
髪を洗う。
濡れた髪をタオルで包み、ドライヤーを持ってベッドに戻った。
柳原の言葉を咀嚼せず繰り返す。一語一句変えないように繰り返す。
彼に不安を感じさせていたのは分かる。
扉の隙間にあてがわれた指に里香は侵入を許さなかった。
柳原は抉じ開けるような真似はしない。
諦めて扉を優しく叩くだけ。擦るように。それは愛撫の域を出ない。
全てが心地よかった。全てが穏やかで全てが端正で。
何もかも許される。筈だった。
誤解ではないと彼は言う。杉崎の訪問を知った自分の反応に腹を立てたと言った。
好意が失われたわけではない。それがいつどこで別れ話になってしまったのだろう。
タオルで髪を叩いているうちに気分が悪くなる。
里香は横になり、枕に頭を置いた。

濡れた髪のまま眠ったのはよくなかった。洗髪自体無理があったのかも知れない。
熱があがり、シーツが泥になって里香を包む。朦朧とまどろみ続ける。
週末みちるはバイトで忙しい。
自分はひとりでこれを切り抜けなければならない。
前日まで動くことが出来たのだし、水分は補給しているのだから死ぬような事はないと
里香はそれほど悪くもない気分で思った。
熱が上がりきったのか、奇妙な高揚感が里香の精神を現実から切り離す。
重い身体は他人のもののようだった。
柳原との別れ話も、夢うつつの中で物語の一節になる。
切なく哀しいけれど仕方のない事なのだ。
旅行にも行かなくていい。断る口実も探さなくていい。
修羅も愁嘆も知らず思い出は汚されない。
何か物音を聞いたような気がした。
次に浮上した時に飲んだペットボトルは冷たかった。
思わず喉を鳴らした。そしてまた枕に沈む。全部夢ならいい。
みちるとの会話も柳原を愛せなかった事も別れ話も。
額に冷たい感触を覚えた。みちるが来たのだ。
目蓋に掛かるタオルを押し上げてまで目を開ける気力もない。
ありがとうと溜息のように言って、差し出されたストローを咥えた。
暫くしてタオルが交換される。何か声を掛けられたが、聞こえなかった。
何となく頭を頷かせた。気持ちいい? うん。そんな会話を勝手に描いた。
ピアノを弾く少女に話しかけた。
レッスンバッグを持って少女は走り去る。
五線の描かれた道路に音符が散る。やがて星になって天に上がる。
きらめきは金属音。トライアングルがちりちりと鳴り続ける。
うるさい。手で星を払い落とした。
楽譜の捲られる音がする。
教師が横に立って少女に何かを言う。
里香は少女になってそれに答える。開いた口にストローが当てられた。
冷たい。「おいしい」
よかったとピアノ教師が言った。





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by officialstar | 2012-06-18 10:15 | 無題

無題 act8


夜中に何度か目が覚めた。
熟睡に入ったのは明け方であった。だがそれも夢に邪魔される。
醒め際の夢には現実の物音が関与する。
みちると、もうひとりの会話がテニスの打ち合いになっていた。
奇妙なゲームだった。審判がコート内を走り回っている。
その審判が里香だったのか、ひどく疲れて目を開けた。
「熱 あるんじゃない」 みちるでない声が言った。
みちるの掌が里香の額に当てられる。
「上がったなあ。タオルで冷やしておくか」
「あ! じゃ 俺が」
「動き回らないで」
襟首を掴まれた青年が振り返る。
「……杉崎 くん?」
「そう。ほら」と男はみちるの指を払った。「知り合いだろ ちゃんと」
そうなの? とみちるが里香を見る。
確かにそうだが、彼が何故。どうやって。
「休講でさ。暇潰しにワンルームの表札探して歩いた。
やあ まさか見つかるとは思っていなかったんだけどさ。
このあたりテリトリーなんだ。一本裏に旨いパン屋があるんだ 知ってた?」
「インターホンを押すところに行き合わせたんだけど」
「何 調子悪いの。風邪? でもパンくらい食べられるよね。
わざわざ戻って手土産がわりに買って来たんだから。
いや 留守でなくてよかった」
テーブルに袋を置いて中を描き回した。
みちるは傍を離れて浴室からタオルと洗面器を持ち出し、キッチンに入った。
グラスを手に戻り、里香に「起き上がる?」と訊く。
手伝って背中にクッションを押し込み、グラスを持たせた。
杉崎はパンを出して両手に持つ。
里香がグラスの半分ほどを飲むのを見ていた。
そこで初めて具合が相当に悪そうだと気づく。
「いや 俺 もしかして無作法だった?」
里香は手を伸ばして「何パン?」と訊いた。
「クロワッサン こっちはベーコンとオニオン だけど」
「ロールパン ないかな 食パンとか?」
「明日の朝飯用のなら」と袋から出した。
里香はひとつ受け取って端をちぎった。舌に乗せて溶かす。
三口ほど食べたところでみちるがグラスを差し出す。
里香が飲み干したそれを持ってキッチンに行く。
椅子を運んで杉崎を座らせ、グラスをふたつテーブルに置いた。
里香は小さく齧りながらパンを食べた。
半分ほど食べて味が分かってきた。これはパンだ。
みちるに皿を持ってきて貰い、パンを置いた。
「おいしくない?」 杉崎が覗う。
「一度には食べられない」
杉崎はみちるに勧め、自分も一個取った。
彼が食べているのを見ている間に、里香も再びパンを手にした。
みちるが「うん おいしい。どこの店だって?」と訊いた。
杉崎は建物の裏を身振りで示し、店の名前と看板の色を言った。
「すぐ裏。知らないと分かりづらい。大学内では有名だぜ」
「帰りに私も買って行こう」
「メロンパンが人気」
「里香 好きだよな? 変な食べ方するけど」
「変?」
里香は笑って説明する。叩いて叩いて平たくして硬くなるまで叩いて。
話しているうちに喉に引っ掛かる感覚は消えた。
杉崎はロールパンをもうひとつ出して皿に乗せたが、里香は「あとで」と言った。
みちるは里香の額に手を当て、顔を顰めた。
上がっているという自覚は里香にもある。
「寝ていれば治る」 そう言って横になった。
みちるは洗面器に浸したタオルを絞り、里香の額に乗せた。
気持ちいいと里香は呟く。目まで覆ったそれは里香を落ち着かせた。
「ごめんね。もう寝るから」 杉崎に言ったつもりだった。
起きたらまたパンを食べるわ。ありがとう。
みちるはペットボトルを入れ替え、杉崎のグラスを洗った。
タオルを運び、引き出しからTシャツを出して枕元に置いた。
杉崎はベッドの横に置かれた椅子に座っていた。
その気配を感じながら里香は眠りに落ちていく。
室内に誰かがいるのに。不思議に思う。眠れるわけがないのに。

物音で目が覚めた。
杉崎と椅子が床に転がっていた。
「……何」
杉崎自身すぐには状況が分からなかったようである。
ベッドから覗き込む里香の顔を見て不思議そうにする。
それから「ああ」と頷き、身体を起こした。「俺 寝てたわ」
立ち上がり、里香の額に触れようとする。里香は首を振ってそれを避けた。
「どうして」
「みちるさんに頼まれた」
「どうして」
「また吐くといけないし 熱もあがるかも知れないし」
「どうして」
「……怒ってる?」
当たり前だ。里香はその非常識をあげつらおうとしたが、気力もなかった。
上げかけた頭をぐったりと枕に降ろして「帰って」と言った。
「でも そろそろみちるさん来るから」
「帰って!」
「何もしてない 何もしてないって。座ってただけだから」
「帰って」
「みちるさんに叱られちゃうよ」
里香は全体力を使い果たした気がした。
暫く顔を埋めていると、杉崎は許しを得たように椅子に座った。
「怒った?」
怒りは渦巻いている。だが対象がみちるなのか杉崎なのか分からない。
杉崎を部屋に置いたまま眠り込んでいた自分が信じられない。
みちるはどうして彼を残していったりしたのだろう。
親しい仲だと勘違いしたのか。杉崎がさせたのか。
だがみちるは決して垣根が低い方ではない。初対面の男を信頼したのには理由がある。
……ああ。
里香は顔を上げ、皿に置かれたパンを見た。
杉崎がその視線を追い、袋に手を伸ばす。「まだ あるから」
「要らない」
里香は起き上がりベッドから脚を下ろした。杉崎が立ち上がる。
冷ややかに杉崎を見て牽制し里香は洗面所に向かった。
手と顔を洗うついでに髪にブラシを入れた。
床に弾力を感じるのは熱のせいだろう。だが気分は悪くなかった。
ベッドに戻ると、杉崎がグラスに飲み物を用意していた。
「休講は一限目だけだったんでしょう」 里香は言った。
「怒ってない?」
「もう遅いもの」
ベッドに入る前に枕とクッションを整えた。そこに凭れてパンを半分食べる。
ドアがノックされた。みちるだ。
聞こえるかどうかは分からないが「どうぞ」とだけ言って、待った。
しかし、入ってきた影はひとつではなかった。




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by officialstar | 2012-06-16 09:54 | 無題

無題 act7


口に出して里香は自分がその事実をずっと知っていた事に気づいた。
それが今ゆるがせない現実になってしまった。
里香は唇を結んで視線を流した。
携帯に着信記録が鎖のように連なっていく。
「好きになれるとは思ったんだろう?」 立ち直ってみちるは優しく言った。
「みちるさんはどうして あの人を好きになったんですか」
一度見開いた目を、可笑しそうに笑わせた。
「人間は自分にないものを求める」
「たとえば」
「身長。細い腰。長い指。癖のない髪。真面目な顔」
里香はからかわれたような苛立ちと惨めさを感じた。
みちるは口の中で「ごめん」と言う。
「あいつは つまりは医者だろう?」
里香は眼差しで先を促した。みちるは言う。「文化財の」
その修復技術を学んでいると聞いた。
しかし医者というのには無理がある。到底みちるの親の病院は継げない。
「いいんだよ。次のステージの前に少し癒されたかっただけだから」
「それがどうして私には駄目なんですか。柳原さんは優しいです」
「里香を守りたいと言っていたな」
「ではあとは私が好きになればいいだけです」
「駄目だよ」
里香は問う。どうして。
「里香は血を流さないとな」
その声の柔らかさに、血の生温かさを感じた。里香は顔を強張らせた。
みちるはテーブルからグラスを持ち上げ、里香の唇に当てた。
里香は喉を小さく鳴らし、咳き込んだ。
涙を滲ませて里香は「姉が来ます」と言った。
「お姉さん?」
「姉が来たんです。血を流した その日に」
みちるは何も返せない。
彼女に混乱を招いた事を里香は認識する。その混乱は里香に伝染する。
話したい事と知られたくない事を分別しなくてはいけない。
だが濁った思考にそれは難しく、里香は沈黙するより他になかった。
「返信 したら?」 みちるが携帯を指差して言った。
「して下さい」
「私がいるって?」
文面を作って里香に見せる。里香は頷いた。
「パン粥でも作ろうか。それぐらいしか出来ない」
「後でいいです」
みちるは絵の前に立った。それが癖であるのか、腕を組んで絵を見下ろす。
「何の話だった? 絵の中が何だって?」
「線になれば入れますよね」
「点の方が確実だ」 みちるは言って里香を見た。
里香はみちるを見ていなかった。姉の事をどう伝えるか記憶の整理に忙しい。
「この絵」 みちるはキャンパスを両手で持ち上げた。「なくてもいいだろう」
「え?」 里香は我に返る。「え? でもそれは母が」
「模写したい。一応画学生だから 私」
模写するほどの絵でない事はみちるの口ぶりから分かっている。
それが分からない里香でない事もみちるには分かっている筈だった。
「どうぞ」 里香は言った。
「血を流すって 生理? もしかして初潮か」
「ええ」 目を伏せる。「今 思い出しました」
姉が里香の部屋のドアを開けたのは、その日だった。
学校で説明は受けていた。どうすべきかも聞いていた。
母に言い、支度を貰う。処置をして床に蹲った。
ドアが開いて気配が横に座った。里香は怖くてそちらを見る事は出来なかった。
その影と、生まれてこなかった姉と結びついたのは、夜になってからだった。
正体の分からないものに対する恐怖は薄れた。
「お姉さんはもう来ない? 来て欲しくない?」
「だって姉なんて本当はいないんですから」
「私が言っている血を流すというのはそういう事じゃない」
「同じ事です」
「傷口の出来る前に手当てを受けてはいけないと言っているんだよ。
柳原はその危険全てを里香から遠ざけようとするだろう」
「みちるさんはどうして」 里香は訊いた。「私に服を選んだのですか」
「もっと似合うものを着たらいいのにと思ったんだ」
「似合ってましたか」
「センスを疑う?」
「あれは私の服じゃありません。姉にこそ相応しい色です」
「姉さんなんかいないって言ったじゃないか」
みちるの声は里香を責めてはいなかった。だが里香は勢いを失ってしまった。
髪を握り、みちるはベッドの脇に戻る。
「私は医者じゃないんだよ」
「分かってます」
「着たいと思っていた色だよ。それは認めるよ。
それが里香に似合っていたというだけだよ」
「分かって います」 里香は濡れた瞳で窓を見る。
柳原の告白を抵抗なく受け容れたのはみちるのせいだと思う。
癒しを彼になど求めてはいなかった。少なくともその時は。
「……ピアノの音 聞こえませんか」
みちるは数秒耳を澄ました。「いや……?」
「そうですよね 聞こえる筈ありませんよね」
あれは実家の部屋で聞いた音だ。
今、里香の耳はそれを拾っている。
最初からそんな音はなかったのだろう。誰もピアノなど弾いていない。
「弾きたい?」
「いいえ」
「……習いたかった?」
「いいえ」 里香は懸命に自分をその場に引き止める。
姉のワンピース。素人のピアノ演奏。少女の幻影。
里香は両手で耳を塞いだ。それでもピアノの音はやまない。
邪魔だった。掴みかけたものが指先を掠めて逃げていく。
それとも自分はそれを掴みたくないのだろうか。
耳を塞ぐ里香をどう受け取ったのか、みちるは「パン粥を」と言った。
キッチンに向かいかけたみちるを里香は呼び止める。
「何か食べないと」
「今日は 駄目です。いいんです」
「じゃ 明日?」
ああ。そうだ。明日がある。明日ならきっと。
「……鍵を持って行って下さい」
「そうだね」 
枕元にペットボトルを並べ、みちるは部屋を出て行った。
鍵の回る音がピアノの幻影を散らした。
里香は壁を見た。絵は消えていた。
だが空で覚えた構図を里香は壁に描いていた。



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by officialstar | 2012-06-15 09:42 | 無題

無題 act6

気がついたら朝だった。絵の前の床で眠り込んでいたのだ。
冷蔵庫の牛乳は嫌な匂いを放っていた。
里香は水を飲んで部屋を出た。
学食でサラダを突いていると、誰かが前に立った。みちるだ。
「虫にでもなるの」
「せめて小鳥」
「鳥でも虫ぐらい食べるわ」
手にしたトレイを無造作にテーブルに置く。
「ダイエットが必要なのは私で 里香じゃない」
かき回しただけのサラダを押し遣って里香は「食べたくないの」と言った。
みちるはフォークでチキンを刺すと里香に突き出した。
「これを食べたら許してあげる」
「無理です」
「じゃあサラダを全部食べなさい。残さずきれいに攫えなさい」
里香の上半身が小さく痙攣した。みちるの目には分からない。
硬直した顎をぎこちなく上げて前を見た。
正面に座るみちると目が合った。顔を背けた。みちるの口が開く。
里香は立ち上がり食堂から逃げ出した。
そのままエントランスを横切った。柳原とすれ違った。
里香を呼ぶ声。だが里香は立ち止まらない。


柳原の顔が目の前にあった。
何度かの瞬きで焦点を合わせ里香は「どうして」と呟いた。
倒れたんだと柳原は言った。
「救急車を呼ぶか迷ったけど 俺が運んだ。病院行く?」
「どこも悪くない」
「悪くない顔じゃない」 後悔を浮かべて柳原は言った。
「悪くないの。ええ きっと あれ あまり食べていないから」
「あまり?」
柳原は立ち上がってキッチンに行く。
「何なら食べられる?」
「食べたくない」
「お粥はつまらないな。リゾット風にするかな」
フライパンを出しながら独り言のように言った。
里香はもう何も言わなかった。水気が多ければ喉を通るかも知れない。
スープストックを出し、チーズの日付を確かめ、ごそごそと動き回る。
里香は起き出してソファに座り、その背中を見ている。
無駄のない効率的な動き。全てを計算してから作業に入る。
流れる動作は彼を端正に見せた。細い腰に洗練された美を感じる。
彼の作るものならば食べられるかも知れない。里香は思う。
やがて皿を手に柳原が歩いてきた。
スプーンの先で少量すくい取り、里香の口元に運んだ。
里香は笑って、その手からスプーンを受け取った。
優しい味だった。歯で米のあるかなきかの芯を噛み締める。
「ゆっくりね」 柳原が言った。
皿に入れてきたのはごく少量だった。
5匙ほどのそれを里香が平らげると柳原はお替りを入れた。
里香は両手に皿を持って受ける。湯気が揺れる。
顔の前で一度止め、鼻腔にそれを吸い込んだ。
柳原は里香の横に座った。膝に肘をつき、その手に頬を乗せ里香を見る。
「私はもうこれでお腹一杯だわ。まだあるのなら柳原さんも食べて」
皿の中を掻き回しながら里香は言った。
首を振りかけ、柳原は「そうだな」と立ち上がった。
フライパンに残ったそれを皿に移し、里香の横に戻った。
ふたりで並んで食べた。
おいしいと里香が言うと、なかなかだねと柳原は応えた。
皿を運び、洗う。コンビニで牛乳とパンを買って来ようと柳原は言った。
「プリンもいいな。最近はコンビニも侮れないよね」
里香は時計を見、柳原に言う。「帰らなきゃ」
柳原は切なげに目を細めた。「君が心配だ」
「帰らなきゃ」 里香は繰り返す。
柳原は鞄を持ってドアに向かう。里香はそれを玄関まで見送った。
「明日」 柳原は言う。
「明日ね」 里香は言ってドアを閉めた。そして鍵を掛ける。
踝を返して室内に戻る。
壁の絵が目に入った。
里香は洗面所へと走る。

次の朝、里香は起き上がれなかった。
夜中に何度も吐いた。これは悪い風邪だと思う。
柳原からメールが入る。返信を躊躇しているとみちるからの電話が鳴った。
「倒れたって?」
「風邪じゃないかしら」
「途中で何か買っていく」
「伝染ります」
「伝染らない」
漸くの思いで洗面所に立ち、顔を洗った。鍵を開けておく。肩で息をしていた。
みちるの申し出は有難かったかも知れない。冷蔵庫は空だ。
何も食べたくはないが、冷たい水が飲みたい。
水道水ではきつい。
スポーツ飲料と牛乳と何種かのジュース。食パン。
みちるが並べ、里香は一本を指差した。残りを冷蔵庫に入れてグラスを出す。
里香が飲み干す間にテーブルをベッド脇に寄せた。
グラスを満たしてそこに置く。
「少しずつね。また吐くといけないから」
「吐いたって私 言いました?」
僅かに間があった。
みちるはせわしく動き始めながら「風邪だって?」と言った。
片付けなければならない室内ではなかった。
みちるは自分の鞄の置き場所を二度換え、
前日の里香のバッグを定位置と思わしき場所に入れた。
そして壁の絵を見る。
床に置かれた状態のそれを腕組みをして見ている。
「母が 飾りました。テープ式の止め具だったから弱くて」
「ああ」と持ち上げ重さを量る。「壁紙との相性もあるしね。
どうしても飾らなければならない絵でもないだろうに」
力なく笑った。「それほどうるさくないですよ」
数瞬かけて理解し、「そうかな」と呟いた。
「そんなに悪い絵でもないですよね? ずっと見ていられます」
「ずっと見ているの」
「絵の中に入ったらどんな感じでしょう」
「今より貧しい生活かもよ」
そこは裏通りである。貧民街とまではいかないが、富裕層の住居では決してない。
だがそんな事はどうでもよかった。
「私 溶けなけれといけないと思っていました」
「何に? ……何の話」
「みちるさん お医者になりたかったんですよね」
「なりたかったんじゃない。ならなきゃいけなかったんだ。
でも まあ 女とセンスを磨いて婿養子を見つけるよ。それが?
里香の家はサラリーマンだろう?」
「でも みちるさん 柳原さんが好きなんですよね」
みちるの表情に不快はなかった。
質問を無視され、本音を言い当てられても、
それよりも重要な関心事がそこにあるように里香の顔を見ていた。
「あいつは里香には駄目だよ」
「いい人ですよ」
「知ってる」 みちるは笑う。今里香が指摘したばかりだ。「だから駄目だ」
「私が好きじゃないからですか」
みちるの動きが止まる。
「私が彼を好きじゃない からですか」
眉を顰めた。



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by officialstar | 2012-06-14 10:14 | 無題

無題 act4



里香は杉崎を思い出せなかった。
私服のせいと綾女は言った。髪型も校則に従ったそれとは違う。
「俺はちゃんと分かるけどな」 杉崎は里香の苗字を口にした。
二年の時に同じクラスで。修学旅行の班も言えるよ?
綾女は口の前に指を立てて「あら いい線」と里香に言った。
柳原の事は伏せておけという事なのだ。
そして熱心に高谷に話しかけた。里香はそっと高谷を覗う。
杉崎どころではない。高谷の容貌も朧ろであった。
一年と半年の間追い続けた人の筈なのに、記憶と重ならない。
見ていたのは広い肩幅とユニフォームの背中だけであったか。
時々伸び過ぎだと感じた襟足と。
好青年である事は改めて認識した。相手を逸らさない真剣で優しい眼差し。
砕け過ぎず、よそよそしくもなく女性の心の一枚上に添う。
私服のせいかずっと大人びて、これは綾女でなくても惹かれるかも知れない。
高校生の時は話した事もなかった。
綾女と高谷を邪魔しないように、里香は杉崎と会話を繋いだ。
それは意外と楽であった。杉崎はひとりでも喋り続けていられる人物だった。
話題は忙しく飛び、高校時代の事から芸能の話、最近街で見た光景。
その話の中で杉崎の学校が里香の下宿から近い事を知る。
「ああ あの店ね 木曜日に花屋さんが来る」
「え どこに住んでるの」
駅から、杉崎の大学とは反対方向の。里香はそこで言い淀んだ。
杉崎は続きを待つほど無作法でもなかった。或いは興味がなかったか。
「大学で何をやってるの」と訊いた。
「え?」
「勉強。三年に上がる時文転したんだよね。文系だよね?」
里香には当たり前になった日常も理系の学生には新鮮なのかも知れない。
退屈な日々を頭の中で拾い集める。たとえば。
「本を読むの。百冊のリストから読んでいくの。週に二冊。レポートを出す。
形式は何でもいい。評論風でも詩でも続編でも」
「へえ?」
里香はメモ用紙で一杯になった段ボールを思った。
思いつくまま書き散らしたそれらは大半はレポートに活かされず、
タイトルも入れず未整理なままである。
本を読んでいる間、頭の中に様々な事が浮かぶ。
風景であったり断片的な言葉であったり。主人公への思いや共鳴。
自分ならこうするだろう、こう描くだろうという気持ちが溢れてくる。
それを手当たり次第に綴るのだが、終った途端に全てが色褪せる。
文字の羅列は意味を失い、拙いスケッチは落書きに変わる。
里香はそれらを段ボールに投げ込み、パソコンに向かって打ち始める。
無機質な無個性な文章。
どうしてだろう。読んでいる間はあんなにも自由なのに。
「……で?」
「え?」
「何か出会えた?」
「え?」
「本だよ。それだけ読んだら何かあるだろう」
里香は懸命に一冊を思い出そうとした。
だが杉崎の視線がうるさくて思考が辿れない。
里香は苛々とどうしてこの人はこんな事を訊くのだろうと思った。
「一冊に出会うのって簡単な事かしら」
罪悪感が湧き上がり、それが彼女を攻撃的にした。
何も見つけられずにいる事を批判されたようで、
前期の成績に並ぶCの文字を見透かされたようで。
「何かを見つけなきゃいけないの?」
「さと」 隣に座った綾女が里香の腕に手を乗せた。
場の空気が緊張した。里香の肌にそれはひりひりと痛い。
綾女の指は火箸のようだった。里香は現実の仕打ちに苛立ちを募らせた。
ある瞬間にはそれは確かに色のある世界だった。
本を閉じた時に時間は切断される。何もかもが過去になる。
一時にせよ心動かされた自分を冴えた自分の目が見る。
その視界で萎んでいく思い。
拾い集めるべき断片は散らかったメモにあるのだが、
熱を失った心にはそれは解けない暗号だ。
自分に、或いは過去の自分に何かを掘り起こそうとするが何もない。
それは自分のせいなのか。自分は懸命にやっている。
これ以上どうしろと? 怒りをぶつけようと顔を上げた。その時。
「あ 俺も不感症」 杉崎は言った。
息を吸い込んだ里香はそこで停止した。
「分かる分かる。急にしらけちゃうんだよな」
綾女の手が離れた。
「そ……」
「だから何? ってね」
里香は息を吐く。
力が抜けた。何かを言って杉崎の厚意に応えなくてはと思う。
しかし倦怠感がひどくて言葉を探せない。
「んー あっちもそうだったらどうしよう」 杉崎は言う。
「こいつ どこ触っても平気なんだ」と高谷が彼を指差した。
里香を除く全員が笑い、そこからプレイボーイの条件の話になった。
一座の盛り上がりからそっと身を引き、椅子に凭れた。
手を額に当て、里香は綾女の横顔を見る。
場に戻った空気を冷ますまいとたてる笑い声の、その一番高いところが、
里香の水のグラスを振動させる。
割れないように里香はそれを手で包んだ。
ひんやりとした感触に気は落ち着いていく。
「驚いた」 綾女が里香に凭れかかって囁いた。
それは一瞬で、彼女はまた場に戻った。
驚いたのは自分だ。
杉崎が笑う目の端で里香を見た。
里香は杉崎の事を思い出した。高校生の杉崎を。教室の中に。


休み明け、実家から戻ると里香はみちるの選んだ服を処分した。
室内に残る淡色を押し込めるために箪笥を買った。
白い家具と白いカーテン。建材のオフホワイトが色を帯びて浮き上がった。
冬学期は試験に振り回される。慌しい中でふたりは会った。
春はまだ浅く、ふたりで潜るシーツの温もりは柔らかだった。
柳原との関係は周囲の知るところとなり、当然みちるの耳にも入る。
みちるは里香に「どうして彼なの」と訊いた。
里香は天井の色が好きなのだと答えた。
じきにコートが重くなる。柳原は黒い上着を買った。
サークルでボランティア旅行を企画した。春休みはそれで終った。
準備と資金のためのバイト。家は戻らなかった。
2年になる。学年が上がっても生活は変わらない。
100冊読破の講義は終わり、段ボールは封印された。



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by officialstar | 2012-06-14 10:13 | 無題

無題 act5



連休だった。
柳原を部屋に迎えて夕食の支度をしていた。
里香はひとりで作業する方を好んだが、横に立つ柳原を追い払ったりもしない。
上背のある柳原の顔は里香の頭の上にあり、その腕だけが視界に入る。
贅肉は勿論無駄な筋肉もない、モノトーンの生地に包まれた腕。
「旅行に行こうか 夏に」
唐突な申し出に里香は躊躇する。空けてしまった間を埋める言葉はない。
里香は冗談交じりに訊き返して誤魔化した。
「文化財を見に? 何 何か課題出た?」
「旅行だよ」 少し怒って柳原は言う。「どこがいい?」
里香は口実を懸命に探した。
既に関係をもってしまっている二人にとって、旅行は特別な意味をもたない。
それを断る事が即ち恋人の拒絶にはならない筈だ。
「素敵だわね でも」
「行き先を決めよう。日程は まだ無理かな」
「待って」
突然玄関のドアが開いた。
柳原の方が反応が早かった。
里香は中断前の話題に集中していた。
柳原に肩を叩かれて、それから戸口を見た。
母が立っていた。
彼女はふたりを見、それから腰を屈めて両脇に荷物を置いた。
不必要なまでに深く身体を折り、ゆっくりと伸ばす。
「お母さん」 娘の声を待っていたようである。
「いきなりだったかしら」
「ええ」と里香は言い、「まあ」と濁した。
作業を中断して手を拭う。困惑する柳原を一瞬忘れていた。
「そちらは?」 母が問う。
「大学の」
柳原は一歩前に出て名前を言った。学部を告げ、一年上である事を伝える。
その先は続けられない。
「夕食を作っているの」 里香は言った。「よかった お肉だから」
二人分の分量を三人に分けられる。
仕掛けた米は残ったら冷凍するつもりで二合だし。
「俺は失礼するよ」
「でも」 材料は一緒に買った。費用はいつも折半だ。
ふたりで母を見る。
母は「遠慮なさらないで」と言った。「いきなり来た私が悪いのよね」
里香は掌で柳原の腕を押した。柳原はよろめき、里香を見る。
うつむく里香の表情は彼には見えない。
柳原は「いいえ 俺 帰ります」と言った。
里香も止めなかった。
柳原が玄関を出て行くと、母は荷を解いて容器を取り出した。
家から持ってきた料理の数々をテーブルに並べる。
それは二人には多すぎる。里香の作った皿は狭いテーブルに乗らないだろう。
里香がフライパンに残したそれに母は触れなかった。
食べている間の会話は少ない。
里香は茶碗の米粒を箸の先で丁寧に拾った。
母の視線を感じる。
「ごちそうさま」
部屋にテレビはない。どうしてもという時はパソコンで観る。
二人掛けのソファに座った母は室内を見回すと、退屈した。
里香は食器を流しに入れ、「予定は?」と訊いた。
泊まるつもりならばマットレスを抜かなければならない。
「殺風景な部屋ね」と母は言った。
里香は諦め、皿を洗った。ベッドを作り直し、タオルを出す。
母は突然の来訪の理由を言わなかった。
春休みに帰省しなかったせいであろうか。
「ここを足場に観て歩こうと思うの。折角だもの」
「そうね。どこか案内する?」
「いいところがあるなら」
学校とバイト先しか知らない。大学の傍の店と。
みちると巡ったショッピングモール。しかしそこは母には不似合いだ。
里香が黙っていると母は「出不精は相変わらずね」と笑った。
入学前に買ったガイドブックがどこかにあった。
里香はそれを探し、母に差し出す。母はそれを捲る。
次の日の朝、母はひとりで出て行った。
里香は柳原に電話して前日の事を詫びた。柳原は「お母さんは」と訊く。
「分からない。連休中いるかも知れない」
柳原は溜息を呑み込み、「車が要るのなら出すよ」と言った。
母はあれから柳原の事を訊かない。
里香も話さなかった。話したくもない。
母の荷物を隅に寄せて掃除をした。
マットレスを壁に立てかける。
昨夜母はそれに新品のシーツを掛けて横になり、肌掛けを着て寝た。
里香はラグにも使う家具カバーを畳んでベッドに敷き、
それまで使っていたシーツを掛け直して使った。
母は水通しをしてない新品を硬いと言ったが、聞こえないふりをした。
洗濯したてであるとはいえ、里香のシーツは柳原の匂いを吸っている。
母に何も探られたくなかった。共有などしたくなかった。
眠れなかったのは背中が痛かったからだけではない。
部屋中が母の支配下にあった。
里香は布団に潜り込みシーツに同化しようと努めたが、徒労に終った。
身体が重い。
昼寝をしておいた方がいいだろうか。あくびをして里香は思う。

母は買ってきた包みを開き、一枚の絵を取り出した。
額縁に入れられていない、キャンパスむき出しの風景画。
「ここに飾りましょう」
「釘は打てないわ」 里香は慌てて言った。
母は両手に絵を持ち、壁に当てながら場所を探す。
里香はその後をついて回り何度も駄目だと言った。
「軽いの。テープで貼り付ける金具でいいの ほら」
勝手に位置を決め、母は取り出したそれを壁紙に貼った。
キャンパスは少し揺れた後、そこに落ち着いた。
「これで少しは部屋らしくなった」と母は頷いた。
昨夜の残りで夕食を済ませ、次の日母は帰っていった。
連休はまだ残っていたが、里香は柳原に連絡を入れなかった。
柳原の方からも連絡はなかった。
里香は壁の絵を見ながら休日を過ごした。


「痩せたんじゃない?」 友人が言った。「顔色も悪い」
「蒸し暑いわ。暑いからよ」 里香は応えた。
10日間の連休だった。
柳原と会わないまま大学に出た。
すれ違った学生皆に痩せたと言われた。連休中食欲がなかったのは事実だ。
母の置いていった常備菜を全部食べた後は殆ど料理をしていない。
午後柳原からメールが入った。夕方の予定を訊いていた。
里香はごめんなさいと打ち込んだ。暫く考え「バイト」と入れた。
久しぶりの大学に疲労感がひどかった。
だがそう伝えると心配して部屋に来るかも知れない。
里香は4限目を休んで帰った。
玄関を入り、ミニキッチンを通ってワンルームに入る。
白い部屋に浮き上がる一枚の絵。
テープでは支えきれず、床に落ちて、そのままの状態だった。
どこかの街。ヨーロッパを思わせる石畳と、向こうではありきたりであろう建物。
それだけの絵だった。だがここではないどこか遠く。
しかしどこかにはある場所。
里香は床に膝をつき、間近で絵を見つめる。
指で建物の輪郭を描く線に触れる。
油絵具の膨らみを感じる。



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by officialstar | 2012-06-14 10:13 | 無題

無題 act3



会合のテーブルの隅から、里香は遅れてきた柳原を見ていた。
スキー合宿の話が進んでいた。
「参加する?」と隣に座るみちるが訊いた。里香は首を振った。
みちるは手を挙げた。「スキーやらなくてもいい?」
「温泉ないですが」
「ふん」と手を下ろした。
柳原はコートを脱いだ。その寸前に里香は目を逸らした。魔法が解ける前に。
「行きましょうか」 みちるに言った。「合宿」
「行って?」
「ふたりで雪の中を歩きましょう」
みちるは退屈そうに「ああ」と言った。
里香はみちるは行かないだろうと思った。
それはそれでいいのだ。自分はシチュエーションを得た。
真っ白な世界をみちると歩く。ホワイトアウトに全て閉ざされる。
天もない。地もない。手を伸ばせば届くみちるの姿さえ見えない。
ただ感じるだけ。
みちるが反対側の隅の柳原を見ている事に気づいた。
テーブルに置いてあった参加申込のプリントを彼は熱心に見ている。
「ウェア 見に行く?」 みちるが言った。
里香は「いいえ」と答えた。その時携帯の着信に気づいた。
メールの送信者は柳原だった。
里香はテーブルの下でそれを開き、文面を読んだ。
自分の住所と部屋番号を打ち込んだ。指は直線で送信ボタンに飛んだ。
携帯を閉じ、みちるに「先に失礼します」と言った。


ふたりベッドに並び、天井を見ている。
柳原の腕が動く。里香は動き出す前の筋肉の緊張をシーツの下に感じていた。
「私にはね」 里香は喋りだす。柳原の動作が止まる。「姉がいたの」
「いた?」
「いる筈だった。母は流産した。私が生まれる そう 15年前」
そうひと息に告げて里香は目を閉じた。
姉というのは嘘だった。性別など知らない。名前もついていない。
法的には「モノ」でしかなかった。
なぜこんな事を話し始めてしまったのだろう。
母親の流産の話など誰にも喋った事がない。母でさえ話題にしたのは一度きりだ。
里香が小学校に上がる頃?
違う。聞いたのは母親からではなかった。父の独り言だった。
「ひとりっこにしてしまったなあ」と父は言った。
あの子が生まれていたら。もう何年になるだろう? そんな風な。
6歳かそこらの里香に完全な理解は無理だった。
だが漠然と彼女は知った。納得した。
里香は何度も反芻して言葉を記憶した。
成長して全部の単語を繋ぎ合わせられるようになるまで繰り返した。
自分が生まれる15年前、母は23歳の時に流産した。
その認識と、里香がその時に聞いた何かが嵌る音は同じであったかも知れない。
里香は父の顔を見上げながら、ああそうかと思った。思うでもなく感じた。
「振り向かないの」 母が叱る。「どうしていちいち振り返るの」
そういう事だったのだ。
姉が部屋を訪れるようになったのはいつだっただろう。
もっとずっと後、中学生になった頃ではなかったか。
「さみしい?」 柳原が訊いた。
里香は「別に」と答える。「柳原さん 兄弟は?」
「弟がいる。三歳違い。まあ普通かな」
「似ていますか?」
喋るのは大儀だった。だが言葉が途切れると柳原の筋肉が小さく軋む。
里香はそれを聞きたくなかった。
いつまでもこうやって天井を見ていたかった。
シーツの下の素肌を気恥ずかしいものにしたくなかった。
「帰らなくちゃいけない」 里香は言った。
「……そうなの」
「そう」
柳原は起き上がる。視界に浮き上がった白い背中を里香は見る。
そしてまた目を閉じた。
里香が送ったメール画面を手に、柳原は部屋のドアを叩いた。
招き入れた里香に初めて会った時から好きだったと彼は言った。
その事実は里香を幸福にはしなかったが、訥々と語る声は心をくすぐった。
出会った頃の里香に特別な魅力があった筈はない。
柳原は、グラスを砦に懸命に自分を守ろうとする少女が愛しかったと語る。
田舎から出てきた純朴な娘を里香は描く。
「それが」と柳原は溜息をついた。「見る間にきれいになって」
みちるの手ほどきである事は分かっていた。不快ではなかったが不安だった。
その変化が他の男の気を惹く事と、里香自身が振り回されているのではないかと。
俯きがちの顔は前髪に隠され、長くしなやかな指が雄弁に里香を口説く。
「もう着ないの」 里香は言った。「もう脱ぐわ」
里香はあなたはコート以外何も着ないのがいいと柳原に言った。
そして彼が全部を脱ぐのを止めなかった。
全てが終わり、感動と充足に柳原が息を吐くのを聞いた。
見上げた天井は白かった。ベッドに素裸でいる事の頼りなさと、
だがそれゆえの、自分を何かに委ねている心地よさと安堵感、
壁に求め、得られずにいた密度を里香は知った。
衣擦の音に耳を澄まし、ハンガーからコートを外すのを聞いて目を開けた。
黒いコートが宙に踊った。舞い降りて柳原の身体を包む。
「帰らなくちゃいけない?」 柳原は言う。
「ええ」 里香は言ってシーツを顔まで引き上げた。


クリスマスを柳原と過ごして、家に戻った。
翌日高校の同級生から電話が入った。
会える?と訊く。勿論と答える。
大学入学の際、不用品の電化製品の仲介をしてくれた友人だ。
何となく集まった地味な集団の交友関係の中でひとり異彩を放つ、社交的な少女。
艶やかな空気をまとって待ち合わせの喫茶店に現れた。
「夏休みもこっち戻ってたんだって?」
綾女は少し詰るように言った。
とはいえ、彼女も免許合宿と北海道旅行で殆ど地元にはいなかった。
「彼も 戻ってきてるよ? 知ってる?」
「彼?」
「やだ」 綾女は身体を椅子の背もたれにぶつけた。
里香は懸命に思い出す。ああ! 確か東京の大学を受けると言っていた。
ねえと友人は身を乗り出した。
「私 高谷の友達と親しくなったの。杉崎。知ってるでしょ 誘ってみない?」
里香は首を真っ直ぐに立て直して「駄目」と答えた。
「どうして」
どうしても。そう見返す。
もしかして? と綾女は問う。里香は頷いた。
「じゃ 決まり。私は高谷。さとは杉崎と」
強引だと思ったが、無下にも出来なかった。
綾女は里香の学校生活に彩りを添えてくれた友人だ。
ふたりでグランドに高谷の姿を探すのは愉しかった。
仄かで密かな恋心は切ない甘さだけを少女に与えてくれた。
卒業まで告白されなかった想いは本気ではなかった筈だ。
綾女ならばどんな壁も突き破れる。
試みなかったのはそれが綾女にとっても仮想現実に過ぎなかったからではないのか。
その綾女が里香の前でメールを打っている。
ぷち同窓会と名目をつけて高谷と会おうとしている。
瞬きを忘れたように視界が霞んだ。焦点が綾女に合わない。
テーブルの上に視線を落としてきつく目を閉じた。
水の中で聞く声のようだった。店内のざわめきが非現実になる。
「やたっ」
「え?」
「明後日 高谷と約束があるってよ。一緒しても構わないって」
綾女はもう決定したとばかりに里香に時間を告げる。
先に待ち合わせておこうと場所を決める。何を着ていくか相談をする。
「あやは可愛いもの。何を着ても似合う」
「そういう さとこそ。彼氏が出来たから? 雰囲気変わったよね」
これは。里香は巻いた髪を指で握る。
みちるの助言とみちるの好み。
服は全部置いてきたが、何もかもが戻ったわけでもない。
「大学に 美術科があるから。知り合いも増えて影響受けたかな」
里香は言い、話題は柳原の事に移った。
女同士異性の話をする。高校の頃に高谷を追いかけた思い出が蘇る。
明後日愉しいといいねと里香は努力して言った。
綾女はそうだねと、だが上の空で言った。



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by officialstar | 2012-06-14 10:12 | 無題
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