烏鷺

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夕に綻ぶ 36

それで脳に血が回ったのか、均は切り返す方法を見つけた。
「君は 順子が好きだと言った」
「ええ」 最初の「え」は勢いのまま素直な声だった。だが刹那後に警戒を帯びる。
歯切れの悪い「え」を受けて、均は続けた。
「彼女が凭れかかってきたら」
「そうね 嬉しいわ」
「髪を撫でる?」
「慰めを求めているようならば」
「肩を抱く?」
「寒そうならね」
「そのうちにキスをしたくなる」
「でも しない」
「相手が許しそうだと感じたら? それは分かるものだろう」
「順子さんの場合考えづらいけど」
「でも髪になら? 額になら? 頬になら」
酔いか妄想にか目を潤ませていた玲子が、急に冷える。「嫌ね あなた 悪趣味よ」
「何が」
「男の興味の対象にはなりたくないわ」
均は小さく咳払いをする。勿論そんな目的ではない。
坂下との事をなぞらえたかったのだ。
「情愛と性愛の境界を訊きたかったんだ。君と彼女の事は現実には考えたくないよ」
「衝動があっても不意打ちはしたくないわ。男女とは違うのよ」
「仮に相手が知っていたとしたら」
「ああ あなたが話すのね 離婚の理由を」
均は首を振る。「仮にだよ」
「だとしたら激情に流されるかも知れない。でもゆっくりだわ。私たちは殿方と違う」
「君ね」 言い掛けて声が掠れている事に気づく。
玲子は身振りでグラスを示す。均は一口含み、玲子もそうするのを見て、暫し黙る。
交互にグラスを傾けているようで、空になったのは均の方だった。
玲子がボトルを持ち上げた。
そしてくすくすと口元を覆う。
「何?」
「こと細やかに進行を訊いて来るかと思ったわ」
「まさか。……相手に拒絶が感じられたら 退く?」
答える代わりに肩を竦めた。
「もし 読み違えて 相手を泣かせる事になったら」
「後悔するでしょうね」
「もとには戻れないと分かったら」
眉を寄せる。質問の真意が分からないのだ。
「たとえば死にたくなる」
「ならない」 玲子はきっぱりと言った。

高原の空気に静寂も透明を増す。研ぎ澄まされた沈黙に、途切れた会話の先が刃物のように煌めいた。
金属的な音が脳裏に響く。
「ならない?」 均は訊いた。
「その瞬間の自分を消したいとは思うかも知れない。だからといって自分の存在ごと消そうとはしない。
いいえ 自分を殺しても過去は消えない。でも 死なないのは だから じゃない」
均はグラスについた水滴を指先で撫で、掌で覆う。
「私が愛した人は 私を拒絶したことできっと苦しむ。その程度の好意も感じられないのなら
最初から手を出すわけがない。肉体的には受け容れられなくても精神的な交流はあった筈だわ。
私は 私が死ぬことでその人を苦しめたくは ない」
初めて会った女性のように、均は玲子を見る。その実、見つめているのは玲子ではなかった。
均の表情に気づき、玲子は真剣さを紛らわせようとグラスを持ち上げた。
それは空だった。手を伸ばしたボトルも空になっていた。
「もう寝なきゃね」 玲子は言った。だがすぐには動かなかった。
手にしたボトルの首を握り直し、そして立ち上がった。
その数秒が、夫婦だった頃の二人の隙間を埋めた。
夫婦には戻れない。恋人にもなれない。だが友情ならば抱ける。家族愛を共有する事は出来る。
「ああ」と玲子の動きに合わせて顔を上げ、均は酔いを自覚した。
長い一日だった。疲れは心地よかったが、身体は重かった。
玲子はグラスなどキッチンに運び、二階に上がった。
均も床に入る。
坂下は生きているかも知れない。均は思う。
夢想だった抱擁に現実の厚みが加わる。力と体温を感じる。
そして? その先はやはり闇のままだ。
均は目を閉じる。安堵と不安が綯交ぜに彼を包む。それが甘い夢となる。
かつてない程に肉感的な、狂おしい快感。腰を突き上げた熱は夢の中で閃光となった。

夜が明け、半覚醒で無意識に下半身を探る。だが痕跡はなかった。
窓の外の気配に時間を測っていると、玲子が降りてきた。
やがてコーヒーの香りが漂い始める。








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by officialstar | 2015-02-17 11:35 | 夕に綻ぶ
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