烏鷺

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夕に綻ぶ 34

母親は、介護の選択もあるが自由もきくマンションに入った。
時々玲子が会いに行く。
全く用もなしに行くわけもないので、均の方にも連絡は入る。
事務的なやりとりの後、均が訊けば玲子は母親の様子を伝える。
訊かなければ何も言わない。
検査を含めた入退院を繰り返しながら、少しずつ正常な生活を失っていくようだった。
均はその事実を自分のものとする責任があるのではないかと思う。
それは勿論「したくない事」ではあった。
「あなたが母親とどういう訣別をしたいか だけだわ」 玲子は言う。
母親の方に息子への執着は既にない。瑛太の事も話題に出さないらしい。
親が求めていないものを子の方に何の義務があろうか。
会う必然を決めるのは均自身だ。
最後に会ったのは、あの日だ。世界が一瞬で塗り替わった、あの日。母は他人のように美しかった。
均はそれ以前の、たとえば自分がまだ少年であった頃の、当たり前の母親を思い出そうとする。
外出がちな母であったが、それでも親子の時間はあった。
映像のように、或いは家族の肖像のような額縁の中に、凛とした母の姿は浮かぶ。
その手も髪も一切の感触はない。
訣別。このまま葬り去れば、乾いた紙が燃え尽きるように何も残らないのだろうか。
老い窶れ、もしかしたら彼の事など忘れてしまったかも知れない母と会う。
それで母の残像を塗り替えるか、否か。
答えは出ない。
出ないまま季節は廻り、悟は小学校に上がっていた。

夏の旅行の時だった。
直前に順子が熱を出した。
玲子の参加も決まっていた。均はキャンセルを考えたが、順子は反対した。
子どもたちが楽しみにしている。
宿泊先はコテージで連泊だった。往きの車中さえ我慢すれば順子も同行できる。
だが順子は自分は行かないと言う。どう考えてもこれは風邪の熱で、玲子に伝染したくない。
子どもたちがいなければゆっくり休めるし、留守の間に治せるだろう。
「しかし」と躊躇うのは、まるで自分に疾しさを認めるようなものだ。
「荷物はあらかたまとめてあるわ」 順子は寝室に旅行鞄がある事を告げる。
子どもたちの着替えは殆ど詰めてある。あとは遊びに使うものだが、それは瑛太でも分かる。
迷う間に前日から泊まる事になっていた玲子が来てしまう。
玲子は状況を知るや買物に出て、順子のために食事を作り置きをし一部を冷凍する。
行くことが当たり前のような振る舞いだった。
子どもたちは心配げに寝室を覗くが、順子は「静かにしててね」とすげなく追い返す。
玲子は「これが主婦の本当の骨休めよ」と陽気に言う。それで子どもたちは納得してしまう。
そうなれば旅行で盛り上がるだけだった。
玲子と子どもたちはリビングで寝る準備をする。気分は既にコテージだ。
自分の荷物を詰め終えても均はまだ落ち着かない。
玲子は「襲ったりなんかしないわよ 知ってるでしょう」と言う。
均は、たとえ自分に万が一の迷いが出たとしても、その確率すらもないに等しいのに、
玲子がそれに応じる可能性はそれ以上にないのだと、己れの躊躇いの無意味さに気づく。
そう。自分たちは知っている。確信できる。だが順子が迷わないのは何故だ。
躊躇はそこに生じているのだと均は思う。
奇妙な事に。順子が一切頓着していない事が、均を不安にする。
明朝、順子の容態を確認しようとする均を玲子は止めた。予定通り早くに家を出る。
昼前には玲子の携帯にメールが入り、早速スープを頂いているとあった。
コテージは二階と一階にそれぞれ寝室となる部屋があり、子どもたちは屋根裏のような二階を選ぶ。
初日の夕食は途中で材料を買い、バーベキューと決めていた。
順子が抜けた分負担は均に回って来たが、それは気にならない。
玲子と分担して切ったり焼いたり仕切ったりする。ビールを飲むぐらいの余裕もある。
子どもたちは夜中まで起きている権利を勝ち得たが、結局いつもより早く寝てしまった。
均と玲子は交替で風呂に入る。「ビール?」と均は問う。
「ワインにしましょう」と玲子は言った。「少し冷えすぎているけど いいよね」
チーズを切って添える。なんとなくグラスを合わせる。
「さっきメールがあったわ」
「順子?」
「また熱が上がったって。薬を飲んで寝る。起きたらまた連絡しますって」
「大丈夫かな」
答えず玲子は笑う。大丈夫に決まっていた。
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by officialstar | 2015-02-07 18:04 | 夕に綻ぶ
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