烏鷺

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夕に綻ぶ 28

鍵を受け取ると均はひとりで部屋に入った。
自分が暮らした寝室に暫し佇み、それから坂下の使っていた部屋に入る。
そこは初めての場所だった。
この部屋にベッドを置こうと均は思う。
自分が使っていた部屋が一番広い寝室なのだが、そこは子ども部屋にしよう。
ここで坂下の息遣いを感じながら、暮らすのだ。
償いという言葉を浮かべ、甘美な苦さを覚えながら噛み締める。
壁に手をつき、目を閉じた。
今なら。
馬鹿げた妄想が脳裏を過る。坂下はいない。もう二度と会う事はない。
……だから か。
目を開ける。ああ。だからだ。均が坂下の幻影を抱き締める事はあっても、
坂下が均に下半身を押しつけてくる事は、ない。

日曜日、順子を訪問する。
引っ越しや瑛太を引き取るための準備で忙しくなるだろう。
訪問が間遠になるかも知れない。
提案を断られて怒っているからではないと、ちゃんと説明しておきたかった。
しかしその話を切り出す前に、順子に深刻な顔をされてしまった。
「……何?」 均は問う。
問われて順子は安堵に頬を弛めた。「よかった」
「何が」
「まだ私の事をちゃんと見ていてくれるのね」
言われて均は気づく。玲子の時に出来なかった事が、なぜ順子が相手だとこんなにも簡単なのだろう。
彼女が漂わせる雰囲気を均は正しく読み取る事が出来る。
「前と何も変わらないよ」 均は力を込めて言う。「君があの提案を断るのは当然の……」
「待って」 順子は言った。「その話 なの」
均は瞬きをする。それから舌を動かすが、口は開かない。なぜか歯を食いしばっていた。
「気が変わったの」
順子はそれだけを言って均を見つめる。
均はどんな顔をするか迷い、その迷いが全部出てしまっていた。順子は笑う。
「怒って呆れて喜んで でも不思議なのね」
「ああ」
「喜んでくれている? 本当に?」
「まだ」
心の底まで届いてはいなかった。自分の思い描いたものと、そこに差し出されたものが一致しない。
状況は全部理解出来ているのだが現実味が湧いてこない。
もとから自分の計画は実現しそうもないものだったのだと思う。
「何から話したらいいかしら これからの事? これまでの事?」
「ええと」 均は順子の肩に手を置き、忙しく考える。
真っ先に借りた部屋の事を話さないといけない。
今更に均は自分がこの話を本気に考えていなかったと知る。
本来なら並び立つ計画ではなかったのだ。しかしもう走り出してしまった。
「住む場所から いこう」 均は言った。そして契約したマンションの事を話す。
順子は想定に反して動揺もせず、問い返した。
「どんな? どこ?」
「ここと同じくらいの広さ。そんなに遠くはない。駅の反対側だ」
どこまで話すべきだろう? 以前にそこに住んでいた。男と。そこを飛び出した日に順子と会った。
出てきた場所に戻ろうとする理由は? あの部屋で何があったかは言わなければならないだろう。
誰がとまではいかなくても。実際それは確定ではない。均が知るのも誰かがそこで自殺したという事実だけ。
「気に入ったのね?」
「環境は 悪くない」
「何か言い辛そう」
「君が ……君がここから離れたくないんじゃないかと。自分の無責任さに少し腹を立てている」
「あら そうね」 順子は頷く。「でも 私は楽になったわ」
「また気が変わった?」
順子は笑う。
「部屋を見に行った方がいいのかしら? でも もう決めてしまったのよね。
あなたの判断を信じる。そんなに外れたりはしないと思う。どうせ私には決められないわ。
だから部屋を見るのは後でいい。さあ 次に決める事は?」
全てが自分からの話であるにも関わらず、均は展開についていけなかった。
順子は傍に寄って来た悟を抱き上げ、相手をする。
「なんていったかしら ……そう 瑛太くん。瑛太くんに会わなければいけない」
悟の顔に、焦点の合わない眼差しを当てながら順子は言った。
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by officialstar | 2014-12-04 16:25 | 夕に綻ぶ
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