烏鷺

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夕に綻ぶ 27

不動産会社の営業の話を均は殆ど聞いていなかった。
家具のない部屋は、まるで知らない場所のようだ。
壁紙は白々しく均を拒絶する。ただドアだけが記憶のままに彼を迎え入れた。
ノブを握り、確かめるようにゆっくりと押し下げる。
営業はそれを見逃さず、均が今握っているノブは他の部屋にはない特注品だと告げる。
掌にしっとりと馴染むそれは、確かにそうだろう。
「借ります」 均は言った。
「いや まだ……」と、浴室もキッチンも見せていない営業は言い淀む。
キッチンこそが売り込みの場所だろうと均には分かっていた。
だから、だ。そこを人に語らせたくはない。
「決めました。契約に入って下さい」
営業に否やのある筈がないのだが、どこか歯切れが悪い。
事務所に移動して書類を開いてもすぐにはペンを差し出さなかった。
書面を並べ「確認しますね」と言う。
指を数字の上に滑らせる。賃料や敷金礼金。そこで初めて均は金額が曖昧であった事に気づく。
所在地と階数は何度も見直したのだが、肝心の家賃は記憶にない。
「え……?」 数字を確かめ、均は驚きを口に出す。
高いのではない。安過ぎるのだ。駅から徒歩圏の3LDK。
それまで2LDKを中心に探していた。それらより安い。
立地は悪くはない。
新築ではないが、坂下の前の同居人が吟味した物件である。構造に問題があるとは思えない。
「広告に出した数字とは違うのですが」
事務所内には均の他客の姿はなかったが、営業は声を潜める。
知らず、均の身体を前に傾ける。その瞬間に理解した。
傷物件。
「待ってください」 均は言う。
「いえ 破格のお値段で」
「分かっています」
均はそれが傷物件である事自体にではなく、傷をつけたのが誰なのかという事に動揺していた。
いつ? 誰が。どういう形で。あれからずっと空室なのか? 
「詳しくお聞きになりますか? それとも……」
「事件 ですか」 
「自殺です」
均は目を閉じた。
「事故の可能性もなくはないのです」
「男性ですか」
営業は頷く。均にはそれ以上聞く勇気はなかった。
「常套句に聞こえるでしょうが すぐに埋まると思いますよ。
実際にたいした事じゃないのですから。病死と変わらない。この金額は家主の良心です」
「猶予…… どれぐらい待って頂けますか」
「明日の日曜日に内覧の予約が入ってます」
唇を噛む。そうじゃない。そういう事じゃない。借りるかどうかじゃない。
「分かります」 営業は諭すように言う。「広告からは分かりませんから。
でもこれは周知されていないからこそで」
均は相手を止めようと掌をかざす。しかし営業は力を込めるばかりだ。
「ご自身さえ お気になされなければ本当にお得な物件なのです。
僕としては別に明日のお客さんで決めてもいいんです。ただ」
「ただ?」
「いえ」
「どうぞ」
「お客様に合った物件な気がするだけです。明日お約束のお客様は ……その」
「今日中に返事をすればいいですか」
「ええ……ええ。営業時間でなくても 携帯の方に入れて下されば。明日本契約に来て頂く事にはなりますが」
均は立ち上がる。
営業も追って立ち、戸口まで見送る。均は営業が支えるドアから外に出る。
だがドアから身体が抜けきらないうちに、足を止めた。
「何か?」 
均は身体の向きを変えた。「契約 手続きを」


結局自分がその部屋に入る事は分かっていた。
傷をつけたのが坂下でなければ、均が生活するに何の支障もない。
それが坂下であったのならば、そこに住むのは均の義務である気がするのだった。
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by officialstar | 2014-11-29 11:01 | 夕に綻ぶ
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