烏鷺

bbbrats.exblog.jp ブログトップ

夕に綻ぶ 17

夕食とその片づけの後、均は帰宅した。寝るには早かったが、一週間の疲れが出ていた。
浴槽に湯を溜めながら服を脱ぐ。下着姿になった時、腕の傷が目に飛び込む。
一本の線でしかないそれは、既にかさぶたになりかかっていた。均は指でそれをなぞる。
順子の家に行く前につけた傷だった。
傷つけたいとか、まして死にたいと思ったわけではない。
自分の覆っている薄い膜を破りたかったのだ。ナイフでどうにかなるものでもないのだが、
その時はそれが一番の方法に思えたのだろう。
滲んだ血を見て我に返った。
水で流し、暫くタオルで押さえていたら血は止まった。
浮かされた熱は消えており、均は着替えついでに外出の支度をした。
玄関を出るまでは買い物に行くつもりだった。
だが足は知らず、順子のマンションを目指していた。
行ってよかったと思うのは、歓待を受けたからではない。順子が見せた素顔のゆえだった。
別れ際順子はまた言った。「楽しかったわ ありがとう」

翌日曜日、均は花を抱えて順子の部屋を訪れた。
夕食のお礼に食事に連れ出そうと思ったのだ。
順子は髪を整え、薄化粧を施していた。均を迎え、花を受け取る。
白を基調に淡い色でまとめて貰った。バラなど棘のある種類は除いてある。
食事に誘うと、「嬉しいわ」と言った。
均は仏壇のある部屋に入る。蝋燭に火が灯っていた。
正座して写真に見入る。笑顔になり切る前の、少し硬い表情だった。
順子よりずっと年長だったかも知れない。均より少し上の印象だ。
平凡な顔立ちだが、好感を引き出す何かがあった。
「名前は」
「祥吾」 花束に顔を埋めて順子は答えた。
訊きたい事はいくつかあった。だがそれは今でなくてもいい。
いつか順子の方から語り出すまで、何も知らなくていいと思えた。
「何が食べたい? 予約を入れるよ」
「ラーメンかなあ」
「は?」 携帯を取り出した手が止まった。
「あのね 二度目からは一人でも入れるの。でも初めての店は苦手。
本当はラーメンが大好きなの。でも主人はあまり好きじゃなかった」
「好きじゃない人もいるんだ……」
「付近で 歩いて行ける範囲で どこかないかしら」
最初の一度を誰かと経験しておけば、次からはいつでも好きな時に行けるというわけだ。
尤もそこそこ美味しければの話だが。
「味の保証までは出来ないけど」
「仕方ないわ。探してみてね。着替えて来るから」
順子は花を入れ替え花束を活けた。
それまで挿してあった花は小分けにし、あちこちに捻じ込んだ。
「後でもっときれいにするわ。ごめんね」 それは均にではなく、祥吾に言ったのだった。
近所のラーメン店に行く程度なら着替えるまでもないのだが、順子は別室に行った。
探してみると、表通りと裏道に一軒ずつ、徒歩10分範囲にあった。
支度を済ませ戻ってきた順子にどちらがいいと問う。表通りの店は通りかかった事があると言う。
「裏通りの方へ行きましょう」
地図を頼りにたどり着いた店は、とても美味しそうな構えには見えず、実際にそのとおりだった。
順子が黙って食べ続けるので均も残さず麺をさらったが、会話は弾まないまま終わった。
支払いを済ませ、店を出るなり順子が声を出して笑った。
「こんなつもりじゃ」 均は言う。
「ケーキを買って帰りましょう。こちらは大丈夫 味の保証付きだから」
導かれて入った店で、だが結局持ち帰るのはやめ奥のテーブルについた。
順子はケーキを美味しそうに平らげた。その細い身体のどこに入っていったのか。
「ごちそうさま」と通りで順子は言った。「そしてありがとう」
マンションの入り口で別れ、均は買い物をして帰宅する。
ケーキ店で話したのはラーメンの事ばかりで、背景は依然曖昧なままだった。
身支度を整え、ラーメンが好きだと言った順子は対面している間は現実的だったが、
別れるとまた頼りなげな風情に戻る。
その順子が夜の中でソファで膝を抱えている。
連絡先を教えておけばよかった。寂しい時は犬になると言っておけばよかった。
今度会ったら、と考え、均はまた自分が訪問する気でいる事を知る。
[PR]
by officialstar | 2014-09-14 16:44 | 夕に綻ぶ
line

小説


by officialstar
line
クリエイティビティを刺激するポータル homepage.excite