烏鷺

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夕に綻ぶ 16

インターホンを鳴らすと、画像で彼と判じたのか何も言わずロックを解除した。
均が六階に上がるのを、順子はドアを開けて待っていた。
名前しか知らない相手を旧知のように迎え入れる。
均も抵抗なく玄関に入った。
微かに香りがした。柔らかくアレンジされてはいたが、それは線香のものだった。
アロマの一種だろうかと思いつつ、廊下を行く。
「急だもの。髪はこんなで」と順子は結んだ髪を押さえ、「お化粧もしてないのよ」と言った。
匂いは段々に強くなる。
リビングに入り、均は自分がそこを殆ど覚えていない事に気づいた。
座ったソファとオッドマンの場所は記憶にある。
トレイを置いたテーブルの高さも。だが壁もサイドボードも初めて見た。
その脇に引き戸がある事も。奥にもう一部屋あるのだろう。
前に来た時にその戸が開いていたかどうか定かではなかった。
順子は前と同じ場所に均を座らせた。
「気になって」 均は言った。
「私も」
「捨て犬が?」
順子は彼を見つめ、やがて顔を綻ばせた。「いいえ 自分が」
「自分?」
「犬を拾おうと思った自分が。そういう衝動とは縁がなかったのに」
その口調は滑らかで、先日の様子と違っていた。現実離れした印象が消えていく。
目鼻立ちの輪郭がくっきり浮かび上がり、記憶にあるよりも凛として見えた。
相手にもそれは同じであったらしく、順子は「大丈夫 もう犬には見えないわ」と言った。
「拾う気にはなれない?」
「欲しかったのは犬だもの。……でも」
「でも?」
「犬は飼えない」
ここ?と床を指差す。規定でペットが禁止されているのか。
順子は首を振る。「ここは分譲で 届け出は必要だけれど 飼えるわ」
「じゃ」
下腹部に手を当て、黙り込む。均はその仕草の意味を解さない。
途切れない線香の匂いの方が気になった。
その視線を追い、順子は立ち上がり引き戸に手を掛けた。
「忌明けは済んでいるの」
均は息を呑む。途端に後悔が押し寄せた。予測はついた筈だ。
順子の不安定な情緒。別の住人の気配がない、だが一人暮らしには広すぎる間取り。線香の匂い。
しかしもう後戻りは出来なかった。均は隣室の戸口に立った。
小さな箱型の仏壇が花に飾られていた。
その横で遺影と思しき写真が、これまた花に埋もれていた。
「この季節だから花もちはいいのに」 順子は言う。「ついつい買ってしまう」
線香は燃え尽きる寸前だった。
均が訪れるまで順子はそこにいたのだろう。仄かな温もりが部屋に感じられる。
戸を閉め切ったのは、均にそれを見せたくなかったからか。
察した均は手を合わせるでもなく、悔みを述べるでもなく、ソファに戻った。
順子は戸を開け放したまま肘掛椅子に座る。
やはりどこか落ち着かない様子で。
「私 ね いつもそっちなの」
均はソファの腰を浮かせた。順子は両掌を均に向けて、それを止める。
「でもこの椅子は 彼のなの だから」
ああ。均は座り直した。
沈黙が流れる。写真の男性の事を訊けば、順子が泣き出しそうで怖い。
順子も自らは語ろうとしない。まだ日が浅すぎるのか、所詮均は通りすがりなのか。
髪のほつれを気にするように順子は神経質に撫でつけた。
素顔が彼女をますます若く見せる。
「寂しいのなら犬は飼った方がいい」
順子は微かな笑みで唇を弛め、首を振ろうとして、その途中で傾げて止まった。
笑顔にも泣き顔にも、見える。
「飼った事 ないの。自分の事だけで手一杯。このうえ生まれたら とても」
「うま……?」 またしても迂闊だった。順子の素振りは、つまりはそういう事だった。
言葉に詰まる均に、順子は「今日は途中で逃げ出したりしないわね?」と言って立ち上がった。
そしてキッチンへと向かう。
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by officialstar | 2014-09-10 18:26 | 夕に綻ぶ
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