烏鷺

bbbrats.exblog.jp ブログトップ

夕に綻ぶ 15

ネットで部屋を探した。短期物件でも構わない。
最初に転居前の場所を当たった。一度通った審査だ。
最上階だが、空いていた。均はそれを押さえた。
翌日の日曜日に契約が出来れば仕事に支障を出さずに済む。
以前に避けた最上階に、半年もしないうちに入るなど担当者は笑うかも知れない。
しかし立地から考えてもそれが一番なのだ。
自動送信の返信を確認すると、荷作りを始めた。
荷物と言っても衣類だけだ。呆気ない程簡単に荷造りは終わってしまった。
その荷物を持ってここを出れば、坂下との事は過去になる。
接点はもうない。坂下は二度とあの職場には戻らない。
こんな簡単に。均は愕然とする。
新しい人生に踏み出した、その最初の場面から坂下はいた。
よもやこんな関係になろうとは思いもよらなかったが、職場で彼の存在を意識した事は事実だ。
思えばその出会いも、きっかけとなった飲み会も。今日に至る大切な階段だ。
その全部が。この部屋を出て、玄関を閉めた瞬間に立ち消える。。
「そうだ」 マグカップを貰って行こうと思い立ち、キッチンに入った。
一見片付いてはいたが、常にない乱雑さを感じた。
均が出て行った時、坂下は昼食の準備中だった。
その材料と使っていた道具だけを片づけ、坂下はここを離れた。
均はマグカップを見つけたが、手を出せなかった。
自分が持ち出そうとしている思い出が綺麗過ぎる事に気づいた。
この場所で感じた筈の、坂下の肉体への激しい嫌悪は蘇らない。
マグカップに注がれるのは、薫り高く温かいコーヒーだけだ。
均は息を吸って現実を見つめる。
水気を全てきれいに拭き取るまでキッチンを出ようとしない坂下が、
こんな状態で家を空けた。
自分はそれだけの事を彼にしてしまった。或いは。
それだけのことを自分にしたのだと彼に思わせてしまった。
大切に積み重ねてきたものが、その時に砕け散ったのだ。
マグカップを何の象徴にするつもりだ?
思い出に?
均は自分に笑う。


一週間を慌ただしく過ごした。忙しくしている方が楽だった。
どの階も間取りは同じだったが、最上階はベランダが広く、廊下がない。
日あたりはよくなっている筈なのに、部屋は寒々しさを増していた。
夜は長い。テレビの音さえも寂しい。
備え付けの合皮のソファには座るのも嫌で、毛足の深いラグを買って床に蹲る。
酒の力を借りて眠る。
土曜日、休日に予定した買い物があるにも関わらず、均は何をする気にもなれないでいた。
思考は同じところを回り続けている。
自ら終止符を打ってしまった事が悔やまれてならない。
均が誘ったりしなければ坂下が誓いを破る事はなかった。
坂下が恋しい。坂下との生活が懐かしい。
優しく満ち足りた日々だった。
だが柔らかな笑顔の下に、坂下はずっとあの欲望を抑えていたのだろうか。
彼は自分がゲイだと言った。同棲していた恋人もいると言った。
その傾向にあるだけではなく、嗜好がそうなのだと言ったのだ。
均はそれを聞きながら、理解したつもりでいながら、何も分かっていなかった。
分かろうとしなかった。
自分が欲望の対象である事に違和感も嫌悪も覚えなかったのは、
坂下の衝動を現実のものとして捉えられなかったからだ。
彼が少しずつ距離を縮めていった事に、坂下は希望を抱いていたのだろう。
だからこそ耐えられたのだろう。
自分同様に現実に立ち向かっていると信じればこそ、
均がゲイである彼を否定せず、温もりを分かち合う事に未来を見ていたのだ。
その思いを、均は最初から裏切っていたのだ。
自分がどうしようもない人間に思えた。
どれくらいに坂下を苦しめ、傷つけたか想像も出来ない。
想像は出来ても実感は出来ない。刻もうとしても切っ先は肌の上を滑る。
自分を追い詰めようとする端から意識は滑り抜け、行き着く先が見つからない。
現実は身体を覆う膜の外から始まっているようだった。
均はキッチンに立ち、ペティナイフを握った。
[PR]
by officialstar | 2014-09-06 10:45 | 夕に綻ぶ
line

小説


by officialstar
line
クリエイティビティを刺激するポータル homepage.excite