烏鷺

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夕に綻ぶ 14

トレイにティーセットが揃えられていた。
女性は均にそれを運ぶように言った。自分は先にリビングに入り、棚から缶を出す。
裏を返し、表示の内容を確かめる。日付を呟くのが聞こえたから、賞味期限だろう。
遅れて均はリビングに入る。
トレイを置いた均に、女性はソファを示した。自分は肘掛椅子に座る。
それでいながら、どこか居心地悪そうに何度も座り直す。
砂時計が落ち切る。視線で促され、均はポットからカップに紅茶を注ぐ。
立ちのぼる香りを鼻孔に吸う。
女性が口をつけるのを待って、一口含む。ミルクも砂糖も要らない。
「これ 美味しい筈よ」と缶を差し出す。断るつもりが受け取っていた。
クッキーだった。
「うん 美味い」
初対面の相手に、互いに敬語を使う事を忘れている。
「順子」
「え?」
「木崎順子」
ああ。「指田 均」
「ひとし?」
「平均の 均。指田は 指に田」
「順番の順」
「順子さん でいい?」
頷きかけ、目を閉じて「順子」と言う。
「順子?」
「順子」 語尾をさげて繰り返す。
「順子」
「紅茶が冷めるわ」
均は慌ててカップを持ち上げる。
順子は砂糖とミルクを足す。両手でカップを持ち、二口飲む。
均はクッキーを食べ、紅茶を飲む。双方のカップに紅茶を注ぐ。ミルクを入れた。
どちらも何も言わない。順子は何も訊かない。均も言い出せずにいる。
飲み終わり、均は缶に蓋をする。ソーサーをトレイに戻す。立ち上がりキッチンに運ぶ。
順子も後から来たが、均を止めない。均はティーセットを流しに入れ、洗い始めた。
それを黙って見ている。やがて冷蔵庫を開けて、「お腹 空いてる? すごく?」と訊いた。
「クッキーを食べたから」 空腹感はもとよりない。
「じゃ ありあわせでいいわね」と独り言のように言う。均に確認するわけでも誘うわけでもない。
カップを洗い終わると、順子は均と入れ替わりキッチンに立つ。
「手伝う?」 均は訊いた。
首を振る。そして作業に入る。
リビングに戻り、習慣的に携帯電話を探す。ある筈がない。
そこで意識は完全に坂下のいる部屋に戻った。
「行かないと」 均は呟く。置き去りにしてしまった。
冷静になれば自分が酷く彼を傷つけた事が分かる。
このまま放置すれば、まんじりもせず一夜を過ごさせることになるだろう。
「行かなければならない」 キッチンに顔を出し、順子に告げた。
順子は手を流し台に置き、振り向きもせず「そう」と言った。
「紅茶 ごちそうさま」 均は言う。「美味しかった」
「ありがとう」 顔を見せないまま順子は返す。「楽しかった」

通行人に駅の場所を訊いた。自分は反対側に来ているらしい。
およその方角が分かれば土地勘はある。坂下のマンションを目指して歩く。
気は重かったが、脚は逸る。何度か躓きながら、夕暮れの街を通り抜ける。
インターフォンを鳴らした。気持ちの準備をするためだった。だが応答はなかった。
部屋の前まで行き、もう一度押す。返事はない。
ノブに手を掛ける。予測した手応えはなかった。均はドアを開ける。
リビングに灯りを見つけて向かう。しかし坂下の姿はない。テーブルにメモを見つけた。
連絡して欲しいとあった。均はソファに沈みながら、携帯を握り締める。
どう言おう? 言葉が見つからずメールで『今 どこにいる?』と打った。
暫し後通話のコールが鳴る。
「謝るのは」 坂下はいきなり言った。「やめよう」
均は何も返せない。
「戻ってきてくれて 嬉しい。俺は親の家に来ている」
「ああ」 聞いているという事を伝えるためにだけ声を出す。
「ここからでも通勤は出来るんだ。少し 遠いけど」
「ああ」
「だから 新しい部屋が見つかったら また連絡してくれないか」
「もう……」 やり直せない事は分かっていた。
だがこのまま、顔を合わせないまま別れるつもだと知ると、
それが自分にとって最善であるにも関わらず、均は動揺した。
「俺は」
「分かっている」 坂下は言った。そして通話は切れた。
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by officialstar | 2014-09-05 09:43 | 夕に綻ぶ
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