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烏鷺

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夕に綻ぶ 10

「もともとの期限で 更新はないという事なんだけど」
「社員になる気も」
「ありません」 坂下はきっぱりと言った。「これまでも三か所を順に回っていて
今のところにずっといたわけじゃない。ただ  今後は もうここには来ないでしょう」
「なぜ」
「潮時 なのと」 坂下はそこで言葉を切って、視線を逸らした。
「と?」 それ以前に「潮時」の意味も分からないでいた。だが先が気になった。
坂下は顔を背けたまま「人間関係が煩わしくなると もう駄目なんだ」と「潮時」の説明をする。
そして湯呑を手にし、中味を飲み干す。
立ち上がり「いつものように」とカウンターに声を掛けた。
「ありがとうございます」とだけ返ってきた。つけ払いという事だろうか。
均も立ち上がり、坂下に続いて店を出た。一度振り返って暖簾を確かめる。
「次の派遣先は決まっている?」
「ええ 順番どおり」
「知った場所なんだ。じゃ」
「引っ越しの予定は ない」 均の言いたかった事を坂下はさらりと引き継いだ。
職場は違っても、住まいは近いままだ。均は自分の中に漸く自覚した動揺を、それで静めようとした。
「あの部屋に 越して来る気はありませんか?」
「え?」 凪いだ水面に再び波が立つ。それはまだほんの小さな波だ。
「外観しか知りませんよね。でもいいところです。部屋は三部屋で 主寝室が空いている」
「え? え ちょっと……」 相手の言わんとする事が入ってきた。
「勿論ご覧になってから決めて下さい。でも その気が全くないのなら」
均は掌で相手を制し、自分を落ち着けた。
「友人とシェアしているって言わなかったか」
「していた。一年ほど前まで」 坂下は言った。「今は一人で住んでいる」
「どう……」
「家賃が負担になってきて 俺には分不相応な住居なのだけれど なかなか思い切れない。
同居する相手は選びたい。合わせるぐらいなら 狭くても独り暮らしの方がいい」
「それで 俺」
「一方的ですか」 坂下は足を止め、均を見た。
その背後に、表通りが見える。その雑踏は既に届いている筈なのに、ふたりの周囲は静かだった。

次の週末、均は坂下のマンションに行った。
玄関の雰囲気からして違う。扉を境に、家が人を迎えてくれる。
均の部屋ほど整然とおらず、有機的な肌触りだった。
坂下はリビングに入る前に各部屋に均を案内する。
まず主寝室。均が承諾すれば、そこを使う事になる。大型のベッドが置いてあった。
クローゼットがある。チェストを用意すれば他に家具は要らない。
納戸になっている四畳半。壁半面は埋まっていたが、窓と片方の壁は空いている。
残ったドアを手の甲で叩き「ここは俺が使ってます」と言った。「六畳足らず」
洗面所と浴室。トイレ。キッチンを回って、リビングに入る。
「何か飲みますか」
「いや」と均は断った。話が終わったら食事に出るつもりだ。
その話も短いだろうと均は予感していた。そのとおり。自分はもうここに来るつもりでいる。
坂下は均にソファを勧め、自分は肘掛椅子に座った。両手を前で組み、床を見ている。
自分から切り出すべきだろうか。均は迷い、口を開く。
だが坂下がそれを遮った。
「言っておかなくてはならない事が」
「ああ それは勿論」 家賃の分担や生活のルールなど。譲れない点は先に交換しておくべきだ。
坂下は首を振る。
「ここをシェアしていた相手は 友人ではない」
「うん…… 女?」
「男性です。でも友人でも親類でもない。あなたの言う『女性』と同じ意味」
「……え?」
「俺はゲイです。彼との暮らしはつまりは同棲で 残っているベッドを二人で使う事もありました」
坂下はそれを早口に、一度も切る事なく言い終えた。
「……ええと」 すべてが静止していた。
その中で嫌悪がないという事だけは早く伝えるべきだと考えた。
返事が出来ないのは言葉が見つからないだけで、決して拒否反応ではないのだと。
「ええと それは そういう事実で」 均は出来るだけの肯定を伝えようと努めた。
坂下もそれを受け取ったように、ゆるやかに頷いた。しかし。彼は言った。
「あなたがそういった事を対岸に見ているのだとしても 俺はそれに甘んじてはいられない。
あなたは俺の対象なのだから」
「え?」
by officialstar | 2014-08-23 10:53 | 夕に綻ぶ