烏鷺

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夕に綻ぶ 9

坂下をマンションまで送る。
その後メールが入った。連休はまだ二日あるが、続けて誘うわけにもいかない。
愉しかったとだけ返す。
均はネットや雑誌で不動産を眺めたり、さして散らかってもいない部屋を片付けたりして潰した。
思えば、あの一件以来友人たちとは殆ど会っていない。
最初の頃連絡が入るごとに転居と離婚の事は告げた。
大抵は「気が向いたら連絡して」と返してくる。誘いづらいのは分かる。
かといって誘ってまで会いたいとも思わない。
訊かれるかも知れない離婚の理由と、訊かれるだろう近況を答えるのも億劫だった。
坂下には自分から話したにも関わらず、古い知己には言いたくはなかった。
真の伴侶どころか、信頼できる友人すら持たなかったと思い知らされる。
しかしそれもいいのかも知れない。
過去には何もなかったのだ。自分はここから始まると考えればいい。
グラスに酒を注ぎ、ソファに身を沈める。
灯りにかざして琥珀の光を見る。
ここから? 寒々しい部屋から目を背けている。どこから。
グラスを重ね、酔いの中に坂下との時間を思い出す。

休み明け、期待に目覚めると思っていたが、実際はそうでもなかった。
出社して坂下と顔を合わせるのが少し憂鬱になっていた。
週末に外した気になっていた垣根を、再び見せつけられる事を恐れていた。
消した敬語が復活していたら。馴れ馴れしく手を上げ、冷やかに応対されたら。
同僚から友人への一歩を踏み出したと感じたのは自分だけで、
坂下には全てが、最初の介抱からが社交辞令であったとしたら。
かつて抱いた事のない気鬱だった。それは自分が好意を覚えているからだと車の中で気づく。
嫌われるのが怖いと感じるのは、その相手が大切な存在だからだ。
相手にとって自分もそうだと思いたい。あの時間は嘘ではないと。
坂下の方が先に来ていた。均は自分の席に鞄を置き、一瞬躊躇して坂下の机に向かった。
机の端に手を乗せ、坂下は近づく均を見ていた。あと数歩という時になって立ち上がる。
互いに、ほぼ同時に言葉を発する。完全には拾えなかったが、何を言ったかは分かる。
均は坂下の腕に触れた。いつもの女子社員を通路の端に見つけ、坂下から離れる。
席に戻って暫し後に、携帯が着信を知らせた。
坂下からのメールだった。『今日は和食でどうですか』

昼休憩に入ると、坂下が席を立ち均を見る。均も立ち上がるが、坂下はそのまま戸口へ向かう。
エレベーターで追いつき、一緒に乗った。何人か同僚も混じった。
二人は一番最後に降りた。ビルを出るまで無言だった。反対側に歩き出し、路地に入る。
「近いんだけど」と坂下は最初の言葉を発した。「穴場 なんです」
「穴場?」
「ああ 職場の人は知らないって事。小さな店で 看板も分かりづらい」と前方を指差した。
差されても分からない。それほどに目立たない店だった。
高級ではないが、定食屋でもない。狭いが息苦しくはない。昼は日替わりの定食と箱会席。
坂下は勝手に箱会席を注文する。均も異存はなく、出されたお茶を飲んだ。
「へえ」
「いいでしょう」 坂下も湯呑を持った。
お茶は旨く、続いて供された料理も良かった。
美味しいと言うより、優しい味。身体に染み込んでいく味わいだった。
「食材をね 吟味しているんですよ。味はどちらかというとシンプル」
「店で食べている気がしないな」 均は呟く。かといって均の知る家庭料理でもない。
母はあまり料理が得意ではなく、玲子の食卓はそれこそ完璧で、そちらの方が店らしかった。
「いいな また来ていいかな?」
「勿論」と言って坂下は箸を置き、膝に手を乗せて均を正面に見た。
その突然の改まった様子に均は戸惑った。
「俺 今月で辞めるんです」 坂下は言った。
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by officialstar | 2014-08-21 11:12 | 夕に綻ぶ
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