烏鷺

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夕に綻ぶ 8

翌日、均は坂下に電話した。予定がないのなら昼飯でもと。
坂下は体調を気遣いつつ、それを受けた。
近辺で気の利いた店を知らないので、車で郊外に出ようと「迎えに行く」と言う。
支度をして降りていくから20分後にと坂下は応えた。
教えられた住所は確かに近かったが、到着したマンションは単身者用には見えなかった。
坂下は既に通りに立っており、均が車を寄せるとすぐに乗り込んだ。
「却って気を遣わせてしまいましたか」
「三連休を持て余すところだったから」
料理に苦手なものはないかと確かめ、ハンドルを切る。
敬語をやめさせたかったが、じきに崩れるだろうとも思う。出来るだけ気楽に話し掛ける。
「あのマンションだよね?」
「ええ」
「住み心地はどう」
「いいですよ。設計士の資格を持った友人が吟味して決めたところだから」
その説明に立ち入るべきなのか、均は迷った。坂下は続ける。
「シェアする事にして借りたんです」
「ああ やっぱり広いんだよね」
「3LDK。一部屋は殆ど納戸だけど」
「それくらいあると」 均は実感を込めて呟く。「住居らしくなるかなあ」
坂下は暫しの間をおいて「部屋なんて 住む人次第でしょう」と言った。
確かに。ワンルームでも自分のものに出来る人もいる。
豪邸で寒々しく暮らす人もいるだろう。
要は、人なのだ。温度なのだ。

店はカジュアルイタリアンを選んだ。
雰囲気は軽いが、料理はフレンチと融合した手の込んだものだった。
アラカルトから選び、ワインは坂下にグラスで選ばせる。
最初のシャンパンだけ均も注文し、乾杯した。
「何に?」 坂下が笑う。
「きっかけに」 均は言った。
ふたりきりで向かい合わせになり、均は前日の感触が勘違いでなかった事を確信する。
坂下がまとう空気は柔らかく、粘性もなく、心地よい温度で均を包む。
均が一杯のシャンパンを舐めている間に、坂下は白を干し、赤を頼んだ。
料理を誉める。薀蓄を交えるわけではないのだが、的確に評していた。
店を選んだ均はそれだけで気分が高揚する。
「あそこの仕事は楽しいですよ」 坂下が言う。「職場の雰囲気もいい」
均が正社員の誘いを受けている事を知ってか知らずしてか。
坂下も誘われていないわけはないだろうに、自分の意思は見せない。
「結局俺は運がいいのかな 悪いのかな」
料理をフォークで刺しながら「これを旨いと思わない人間だっている」と言った。
「美味しいと感じられない状況がある という事ですよ」と言い直す。
「受けた傷に拘れば 少しばかりの幸運は味わえない」
均は残っていたシャンパンを飲み干し、坂下に半年前の事を語った。
ただし、妻の不貞相手が誰なのかは言わなかった。言えなかった。
「奥さんを 今でも愛しているのなら 無理に幸運だなんて思う必要はない。
ささやかな慰め でいいんじゃないですか」
「愛していない」 均は言った。「愛して いなかった。でもそれは幸運じゃない。
それが最大の不幸なのかも知れない。受けた罰よりも」
「おあいこ だった分 救いはあります。家族ごっこは楽しかった?」
「あ? ……ああ」
悪い日々じゃなかった。完璧な妻と居心地のいい家。愛らしい子ども。
虚像となれば虚しいが、経験を金と時間で買ったと思えば悪い買い物ではなかった。
だが。
「寂しい?」
「いや」
グラスは空になっていた。料理もほとんど終わっている。
均はメニューを頼んだ。
コーヒーと。「デザートワインは?」 坂下は首を振った。
「ケーキは要らないな 何か冷たくて軽いもの」
それを食べた後も、ふたりは閉店まで座っていた。
均が語った程に、坂下は身の上を話さなかった。だが語尾の敬語は殆どとれていた。
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by officialstar | 2014-08-12 11:26 | 夕に綻ぶ
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