烏鷺

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夕に綻ぶ 4

均は家を出て、仕事に戻った。
その日は会社近くのホテルに泊まった。
着替えを取りに行きたいから、留守にしてくれとメールを打つ。
翌朝家に寄る。
スーツ何着かと着替えを車に積む。
寝室のテーブルに彼名義の通帳と現金が置いてあった。
その横に、離婚届の用紙もあった。均は署名する。

時々会っていた女性に連絡を取った。
構わないと言うので部屋に着替えを置きに行く。
会社帰りに身の回り品を買った。
何をしていても現実感がなかった。どこか別の場所から自分を見ているようだった。
残してきた用紙に玲子が署名捺印して役所に届ければ、
人生の数年が白紙になる。
……数年ではない。
母親の息子として過ごしてきた30余年の思い出が全部塗り替わるのだ。
父親と離婚したのもそれが原因だった。子どもを得る為にだけ結婚し、別れた。
離婚の理由など訊いた事はなかった。訊けば母を悲しませると思っていた。
母は女手ひとつで彼を育て、何ひとつ不自由させなかった。
それが母親の愛情だと信じていた。
だがそれも、祖父母からの資産が充分にあったからで、
母親が身を粉にして働いたわけでも自分の人生を犠牲にしてきたわけでも、ない。
彼女はずっと若く、美しかった。働く事さえも若さを保つ秘訣だったのかも知れない。
女に言われた場所に車を停め、だがすぐに降りる事が出来なかった。
ハンドルに両手を掛けたまま額をつけ、
やっと湧いてきた実感に身を浸す。
自分は妻だけではなく、母親に裏切られたのだ。
数年の結婚生活だけでなく、これまでの人生すべてが虚構であったと知らされたのだ。
女からのメールで現実に立ち戻る。
荷物を持ち、車から降りた。女の部屋に上がる。

佐央理は夕食を作って待っていた。
食器にまで拘った玲子と違い、垢抜けしない食卓だった。
母親の料理と比べても、劣る。
しかし均はそれを貪るように食べた。空白を埋めるように貪り尽くした。
片づけを始めた佐央理に並び、皿を洗う。
「いいのに」「居候だからな」 自活経験はある。多少の家事はこなす。
自宅のテーブルにあった現金をそのまま渡した。
佐央理は均の目の前で、当座の分として数枚抜き、残りを戸棚の引き出しに入れた。
「気の済むようにしたら いいわ」
「ありがとう」
その部屋に来るのは初めてではなかったが、タオルの場所や使っていい引き出しの説明を受け、
買って来た日常品をそこに収めた。
クローゼットにスーツを入れようとして、移り香を考えてやめた。
雨の日の物干し用だと佐央理がハンガーパイプを出してきた。
「あ……」
「何?」
「パジャマを忘れた」
「今夜は必要ないでしょう」 均の胴に両腕を回して、佐央理が言った。
「そうだな」

しかしその夜均が佐央理を抱く事はなかった。

「疲れているのよ」 朝食のコーヒーを置きながら佐央理は言った。
朝食の仕上げをするとエプロンを外し、
「あなたはゆっくり食べていて」と洗面所へと消えた。
突くだけで食欲はなかったが、佐央理の好意をこれ以上踏み躙る事は出来ない。
均は料理を口に運び、パンをコーヒーで流し込んだ。
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by officialstar | 2014-05-31 15:49 | 夕に綻ぶ
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