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烏鷺

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夕に綻ぶ 3

裸の母親は、均の知るその人と別の人間であるかのようだった。
肌は実年齢よりずっと若いのだろう。
玲子のような瑞々しさこそなかったが、独特の緊張めいた張りがある。
その身体にシーツを被せたのは玲子の方だった。
「リビングでお待ちになって」
「え……」
「身支度をしてそちらに行くわ」
「あ ああ」 均は踝を返して寝室を出た。
ふたつの白い裸体が脳裏にちらつく。
数歩踏みしめ、漸く事態が見えてきた。
だが。しかし。
それは現実として自分の中に入って来ない。
一方が見知らぬ男性であれば。
それでも俄かには信じがたい事実である。ましてそれが。
実母と妻。
何か新式の美容法ではないか。均は考え、信じていない事に気づいて笑う。
ふたり素裸になる必要がどこにある。
まぎれもない、あれは。
姦通という言葉も妙だった。性行為という単語が何をどこまで示すものか分からない。
あり得ない。
あり得ない。
悪い夢のようだった。夢でも見ないだろう。

どうやってソファにたどり着いたのか、どれほどの間そこに沈んでいたのか。
扉を開け入ってきたのは玲子ひとりだった。
キッチンで物音がした。では母親はお茶の用意などしているのだろう。
均はその日常的な音に耳を澄ます。
「さすがに気恥ずかしいのでしょうね」 玲子が言う。
そこに含まれた侮蔑的な響きは、愛人ではなく夫に向けられていた。
「あなたが訊く? 私が話す?」
「話してくれ」 均は答えた。自分が勘違いをしているのだという可能性を消し切れない。
「事実は今ご覧になったとおりよ。香澄……ええ お義母さまね 彼女と私は 五年 もっとかしらね」
「それでは俺と知り合う前からという事になる」
「当たり前でしょう」 玲子は笑う。肘掛椅子の背に身を預け、脚を大きく組んだ。
「何だって?」
「私は子どもが欲しかった。香澄は 息子を手放したくなかった。
裕福な家庭と見栄えのよい息子。でもいつまでも独身では外聞が悪いわ。
折角産んだ息子 遺伝子を途絶えさせたくない。かといって 嫁にとられたくはない。
私は大層お義母さまのお気に召してよ? あなたの子を産ませてもよい ほどに」
「待って 待ってくれ」 均はついていけない。「だが お袋は 結婚して俺を産んで」
「ご自分の子どもが欲しかったのだから 仕方ないわ。すぐに離婚なさったでしょう。
本当は男など嫌い。きれいな女性がいいの。私たち とてもいい相性よ」
均は何も言えなかった。
知りたい事訊かなければならない事はまだある筈だ。
自分の置かれた状況が見えない。自分が選ぶ道が見つけられない。
まだ現実は完全には皮膚を破っておらず、均は保護膜の中で茫然としていた。
水の中から世界を見ているように、玲子の姿が霞んで揺れる。
「信じられないという顔をなさっているわね。でも取り繕いようもないし
取り繕う気持ちもないわ。お義母さまはまだあなたに未練だけれど 私にはない」
「未練……」
「離婚なさる? そうよね それしかないわよね。私はもう二度とあなたには抱かれない。
あなたとの閨事を香澄に話すのも それなりに愉しかったけれど そのために身体を委ねるのはもう嫌」
「話す? け……い? 何だって?」
「ベッドでのあなたを お義母さまは知りたがったわ。全部を掌握する息子の それだけは知り得ない顔だもの」
玲子は両腕を背凭れに預けて天井を仰ぐ。
さらされた白い顎に均は嘲笑を感じる。
これまでの結婚生活が音を立てて崩れていく。均の自尊も男の沽券も踏みにじられ粉々になる。
つい今朝まで大切だった妻、可愛い子どもの母親であった女性が、今はただ憎い。
完璧な家庭と信じていただけに騙されていた自分が醜悪なまでに惨めだった。
ドアが開く。
トレイを手に母親が入ってくる。馥郁たる香りが広がる。女優のように完璧な母。
「クリームが切れていてよ 玲子さん」
「均さんは最近お使いにならないの。漸く紅茶の味が分かってきたようよ」
「あら」
うふふと玲子は笑う。「そう 残念」
「母さん」 均は身を乗り出した。
「夫婦の事に口出しはしません。おふたりの好きなようになさったらいいわ」
「母さん」
玲子が割り込んだ。
「決めなくてはならないのは養育権だけだわ。でも どちらでも同じ事ね。
均さんひとりで瑛太を育てられるわけはないのだから 結局はお義母さまの世話になるのですもの。
それならば私が引き取って 香澄と育てるわ」
「瑛太は男の子だから男親が必要かも知れませんよ」
母親はそう言ったが、決して均の方を見ようとはしなかった。
その均からして父親を知らずに育った。母親のひとりの手で育てられた。その思うがままに。
立ち上がる。
もうその部屋にはいたくなかった。
だが、この家のどこにも自分の居場所はない。
by officialstar | 2014-05-15 09:58 | 夕に綻ぶ