烏鷺

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雪子(さえの母)  DOLL 完



合格通知が届いても娘は行くと言わなかった。
このまま謝礼だけ送る事も出来なくはなかったが、
親として挨拶はしておきたい。

娘が望んで頼んだ家庭教師だった。
店で知り合った大学生に勉強を見て欲しいと娘が言い出した時、
正直迷った。娘の真意が分からなかった。
夫に娘を信じろと言われても、まだ15歳の子供。
会ってみて決めると告げ、揃って顔を合わせた。
印象は真面目な大学生。
特徴はこれといってなく、だがそれだけに男臭さもなかった。
柔らかな、涼やかな、それでいて有無を言わせぬ語り口。
知性と同時に何かの壁を感じさせた。
夢見がちな少女期の娘が憧れる可能性は充分にある。
相手の自宅でという条件に危惧したが、どうやら弟がいるらしい。
その弟が先方宅での指導の理由だった。
謝礼など示された条件はむしろこちらに都合よく、反対する口実は見つけられない。
彼と会い、彼と話し、親が抱く当然の心配、
娘が彼と男女の仲になるのではないか、というそれも薄れた。
女の直感というものだろうか。
彼からはその匂いがしない。

娘は通い続け、成果も出始めた。
塾にも行っているのだから、その全部が彼によるものとは言えない。
だが日頃の熱心さは何より娘自身の意欲だと分かった。
その意欲の根源は彼にある。
親としてはもう何も言えない。
クリスマスに少し息抜きをしたいと言い出した時も、
私は反対しなかった。
欲しかったのは受験生の自覚だ。それはもう娘の身についていた。
プレゼントらしき包みを部屋で見つけ、それが二つである事を確認した。
彼と、弟の分。

全てが順調で、灰色の受験生活がこんな風に過ごせるならば、
結果はどうあれ、これでよかったのではないかと私は思い始めた。
一生懸命に勉強する姿を見て、そう思えたのだ。
勉強に、そしてやはりそれは恋心だったのだろう、生活の充実に娘は輝いて見えた。
それが陰ったのはいつだったか。
私立受験が終わった頃か。それともその少し前ぐらいから?
華やぎが、苦悩へと変化する。

恋であっても構わないと私は思った。
受験本番は目の前であったし、それが終われば当人たちの問題だ。
それ以前に踏み外す事はないと、私は娘と、彼を信じていた。
だが、私は心のどこかで、そんな事には決してならないとも思っていた。
案じていたのは娘の失恋と傷心。
それすらも受験の妨げにならないようにする配慮は、互いにあっただろう。
私立に合格し、続く公立試験も無事終わった。
待ち望んだ合格通知を、娘は私に渡した。
「報告 お願い。どうせ謝礼も持っていかなきゃ でしょう」
「いつもあなたが持っていくのに」
「合格したら お礼を考えるって言ってたじゃない。行ってきて」
何も言えなかった。何も訊けなかった。
娘の恋はもう終わっていたのだ。

それはいい。それでいい。分かっていた事だ。
どういう形で終わったのか、私が関与すべきことでもないだろう。
立ち入れるのは受験の結果までだ。
私は小さな菓子折りと、前月とこれまでの事への謝礼を携え、彼のマンションを訪れた。

応対に出たのは、彼ではなかった。
彼によく似ていたが、記憶にある印象と違った。
弟だ。名前を私は知らない。
兄の方の名前を、先生とつけて呼んだ。「ご在宅ですか?」
弟は戸惑った顔をする。私は娘の名を告げる。
「さ え?」 数瞬の間記憶を探り、指先で唇に触れた。
考え事をする時の癖なのか。「ああ」と顔を輝かせ、改めて私を見る。
「お母さん?」
「母です。お兄さんに教えて頂いて 志望校に合格したので その報告に」
手にした包みを持ち上げ、「お礼方々挨拶に伺いました。お兄さんは?」
弟はまた困惑した表情を浮かべた。
肩越しに室内を振り返り、私に向き直る。
「えっと ……ここには僕しか いないんです」
「お出かけ?」
「そうじゃなく。えっと ここには僕しかいないんです」
その困惑が私にも移った。
兄だけが引っ越したという事なのだろうか。
だが娘の最後の授業からまだ半月程だ。転居の話も聞いていない。
「いつごろお戻り?」
「だから ここには」
身体が弱いと聞いていた。そうではなく知能か精神障害だったのか。
兄に似た利発そうな瞳からはそう思えなかったが、先に進めそうもない。
渡しておけば後日電話なり連絡をくれるだろう。
私は包みを少年に差し出した。


その後彼から連絡はなかった。
娘は私に何も訊かず、私もまた訪問の詳細を話す事はなかった。




雪子  完
DOLL   完
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by officialstar | 2012-09-02 15:34 | DOLL
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