烏鷺

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悟志 2


彼は「親? 親はいない」と言う。
「ええ?」
浪人から一人暮らしという事もあるんだと驚いた。
予備校も地方じゃあまりないのかも知れない。
それじゃワンルームかしらと、僕はテレビでしか見た事がないその間取りに、
好奇心を疼かせて玄関に入った。
入ってすぐのダイニング。右手奥に低いソファ、ベッドにもなるタイプのだと思う、
その前にガラスのテーブルが置いてあり、ノートや参考書が広げられていた。
「向こうは散らかっているから こっちでいいね」とダイニングテーブルの椅子を引いた。
その方が僕にはよかった。
あんな低いソファにどうやって座っていいか分からないし、
脚を全く隠せないのも落ち着かない。
それきりのワンルームかと思ったが、あまりに物がなさすぎる。
僕の目線を追ったのか、彼は「奥にもう一部屋ある」と言った。
頷きかけ、僕は自分の行為を恥ずかしく思った。
「マンションとか 初めて? 家族用じゃないから お風呂 狭いよ 見る?」 彼は言った。
「いえ」
「礼儀正しいのは部活のせいかな? ええと 何を飲む?」
「お構い……」 大人の真似をしてみたが、正確になんというのか分からなかった。
「温かいの 冷たいの? 炭酸系大丈夫かな ちょっと待ってね」
棚を開けて缶と箱を取り出す。クッキーと何か洋菓子ぽいものだった。
それを見せて改めて何を飲むか訊いた。
「同じものでいいです」
「コーヒー飲めるの? でもミルクはないな。牛乳でいいか」
「同じでいいです」
彼は笑いながらキッチンに向かう。「座っててね」
「失礼します」
彼は丁寧に豆を挽き、フィルターを取り出した。
僕の家にはインスタントしかない。
スイッチを入れるとテーブルの、僕の向かい側に座った。
一人暮らしなのに椅子が4脚あった。
並べられたカップはセットになっていた。
大学生の下宿と少し違う。そんなもの知りはしないのだが、イメージと違う。
ここには彼しかいないのに、どこか家庭の匂いがする。
僕は「ひとり なんですよね」と訊いた。
「どうして?」
感じたとおりを口にした。家族の存在が消し切れない。学生の一人住まいには見えない。
彼は笑う。僕の見当違いを笑ったようには見えない。ただ、笑う。
幸福そうな、ずっと見ていたい笑顔だった。だから僕は答えを促さなかった。
コーヒーが入った。
彼は「本当に何も入れなくていいの」と訊く。
「クッキー 頂きます」と僕は手を伸ばした。それがきっと甘いから。
しかし僕はそれを後悔した。
コーヒーをまず味わってから食べればよかった。
それくらいそのコーヒーは美味しかった。
「おいしい」 思わず漏らしたその言葉を、彼は喜んだ。
それがとても自然だったから僕まで嬉しくなる。「おいしい。コーヒーっておいしいんだ」
「それでよければ いつでも飲みにおいで」 彼は言った。
僕は思わず頷いてしまう。
だが僕をそうさせたのはコーヒーの味だけじゃなかった。
この部屋の空気、何より彼の圧力を与えない存在感。
無個性という個性を、なまじな個性よりはっきりと示しながら、
誰にも何も押しつけない。僕がここにいる事を拒絶も強要もしない。
そんな相手は初めてだった。親だって僕をこんなに寛がせてくれない。
コーヒーをお替りし、僕はそれほど慌ててそれを飲んだ気はないのだが、
飲み干すまでの間何を話したか、一切覚えていなかった。
気まずい沈黙もなく、うるさい詮索もなく、彼が何か他愛もない事をしゃべっていた気がする。
「公園まで送って行こうね」と彼が立ち上がりかけるのを、
僕は「分かります。道 分かります」と止めた。
もう勉強に戻らなくてはならない時間だろう。
彼は「そう?」とまた腰を下ろし、両手の指を軽く組んで「じゃあ ひとりでも来られるね」と言った。
僕がお邪魔しましたと言いかけるのを「来てくれてありがとう」と遮る。
「楽しかった。君は とても優しい子だね」

帰り道泣きそうになった。
込み上げる涙を、彼の言葉と一緒に呑み込む。
僕は優しくなんかない。自分がどんな人間か自分が一番よく知っている。
この苦味が思春期だけのものならばまだ僕は救われる。
けれど。
小学生の時のサッカーですら無邪気に楽しめなかった事を、僕は覚えている。


部活の鞄を家に置いて出ても、親は何も言わない。
洗濯物がない事で休部の事は分かっているのだ。
僕は時にまっすぐ家に帰り、時に公園に寄り、そして思い切って彼のマンションを訪問した。
彼の歓待ぶりに、三度目は容易だった。
週に一度僕は通う。もっと行きたかったが彼の迷惑になりたくなかった。
そんな心を読むように、彼は「他の日は忙しいのかな」と訊いた。
忙しいわけがない。部活を休んでいるのだから。
その事実が僕の心を重くする。




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by officialstar | 2012-09-01 17:42 | DOLL
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