烏鷺

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恵利加 3



彼の存在は私には興味深いものだった。
志望校の生徒である事に加えて、高校生での一人暮らし。
並外れた自炊能力。それでいながら生活感を漂わせない。
彼は私の知る中学生よりもっと男ではなかった。
変な表現だが、当時の気持ちそのままだ。
料理が上手というわけではない。
彼には男子特有の粗さも愚かさもなかった。
不在の父親も少し変だった。
父親が単身海外に出た後も彼はその寮に居続ける。
そもそもが家族では入れない筈の独身寮だ。
彼の家庭の事情を考慮してくれるほどの会社ならば、なぜ海外勤務を言い渡すのか。
私は後に、それは彼の父親から希望した事ではなかっただろうかと考えた。
そうでないまでも、与えられた拒否権を父親は行使しなかった。
彼の吐き捨てるような、どこか寂しげな「捨てられた」という言葉が裏付けとなる。

母が煮物を鍋一杯に作った日、私は戸棚の奥の大鉢にそれを取り分け、
何重かに包んで彼の家に運んだ。
彼はそれを彼の食器に移してテーブルに出したが、
食べ終わっても半分ほど残ったままだった。
「やっぱ おいしくなかった?」 私は訊いた。
彼の作るものが洋食寄りという事もあって、私は母より彼の料理の方が好きだった。
「おいしいよ」 彼は言った。「やっぱりという言い方は失礼だろう。美味しかったよ」
でもと私は残された煮物を見る。
「おいしいから後の楽しみにとっておく という事をしない?」 彼は訊いた。
「ええと」
「後でも明日でもおいしく頂けるだろう?」
「煮物だしねえ」
彼はそれを両手で、大事そうにキッチンに運んだ。
丁寧にラップをかける仕草は彼の言葉が嘘でない事を物語っていた。
「作った事はあるんだ」 彼は背中を向けて言った。
「え?」
「煮物とか。これ筑前煮って言うんだろう。材料揃えてレシピ調べて作った。
何か違うんだ。それに材料が余る。作っても食べあぐんで最後は捨ててしまう。
少しばかり作れないし 作ってもおいしくない。教科書の 薄っぺらな味しかしなかった。
これはお母さんの味だね お母さんの煮物だね」
「まあ ねえ」 意味が分からず私は言葉を濁した。
彼は悔しがっているのだろうと思ったが、声の重さはそれだけではなかった。
母親が恋しいのだろうか。一人暮らしの身が切ないのだろうか。
ずっと考えているが、答えは出ない。
私はそれからも度々母が作り置いた料理を運んだ。
そして彼が作ってくれるものを食べた。

「あと一年以上もこんな生活続けるんだ」 彼は言った。
自分の事ではない。私の事だ。
家族で囲む食卓もなく、友達と遊ぶ時間も殆どない。
塾がない日は習い事が入っている。
「だって 変なの 自分だってその学校に通っているのに」 私は言った。
彼がどれほど努力して高校に合格したか知らない。
入学後授業についていくのも大変だろう。しかし彼はそこにいるのだ。
その価値を認識せずに勉強など出来ない筈だ。
「君は何の為に あそこに行きたいと思う?」 
正面から訊かれ戸惑う。
何歳の頃からだろう? 大人達に訊かれる度、私は得意げに答えてきた。
その高校から目指す大学名、そしていつかは。
大人達が口にする賞賛と、私の頭に乗せられる父親の大きな手。
「負けないために」 私は言った。
塾に通い始め、犠牲にするいくつかのものを振り切る時、
親の言葉だけでは足りない事もある。自分の意志でなければならないと気づく。
「負け組になりたくない」
心の全部を言い表す事は出来ない。だが今は旗を振りかざすしかなかった。
「じゃ 僕は負けちゃうのかな」 彼は言った。
私は訊き返す。
「あの学校を選んだのは僕だよ。僕はとても成績が良かった。
でも成績表だけじゃ 何にもならない。父さんは機械的にハンコを捺すだけさ。
成績よりも父さんは僕に 外で たとえば野球やサッカーをして欲しかったんだろう。
けど僕は家から出たくはなかった。勉強が好きなわけじゃないけど
本を読んだり文章を書いたり その延長に学校の勉強もあって 僕は成績だけは良かった」
「すごいじゃない」 それであの高校に受かるならば。
「父さんは僕の成績なんて知りもしない。だから僕は狙える中で一番の学校を選んだ」
そして笑う。「ふふ そこが偶然一番近かった というのもあるけどね」
「近い?」
「往復一時間以下のところなんて そうはないだろう」
「バカじゃない あの学校をそんな理由で選ぶ人はいないわ」
「だね」 彼は笑いを広げる。「だから もう やめようと思う」
「バ……ッ」 バカじゃない? 私は叫びそうだった。信じられない。
「これも負け組?」
「逃げ出すんなら そうよ。何 授業がきついの? ついていけないの」
彼は笑うだけだ。
「周囲が勉強の事しか言わないの。競争相手ばかりなの」
「意外とそうでもないよ」
「じゃ なぜっ!」 たとえそうでも。


そして二学期を最後に、彼は学校に行かなくなった。
クリスマスに彼は招いてくれたが、私は行かなかった。
それきりその建物の方に足を向けた事もない。
どこかのコンビニで似た人を見かけたような気もするが、
中学に通う頃にはそんな事もなくなった。



恵利加 完
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by officialstar | 2012-08-29 15:39 | DOLL
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小説


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