烏鷺

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正敏 1


その建物の前を通るたび、僕は足をゆるめて眺めていた。
会社の独身寮だというそこは、昼間出入りする人もなく、毎日変わり映えはない。
それでも眺めてしまうのは、以前にそこから出てくる同級生を見た事があるからだった。
3年の終わりに転校していった女子。
親しく話した事もないから、その理由は訊けなかった。
彼女は何度も振り返りながら立ち去った。
独身寮だから友達の家であるわけがない。
彼女の通学路ではあるので、そこを通るのは分かるが、
その時彼女は確かに建物の中から出てきた。
振り返るしぐさは、そこにあるものへの興味や執着を感じさせる。
あそこに何があるというのだろう?

4年生も半ばを過ぎ、それでも通塾の途中、友達の家に行く時など
遠回りになってもそこを通る習慣は続いていた。
そしてある時、学生服を着た人がそこの門を通り抜けるのを見つけた。
慣れた様子で建物の中に入って行く。
僕はしばらく待ったが、出てくる気配はない。
ここに住んでいるのだと僕は結論し、ならばあの女子は彼と知り合いだったのかと思った。
独身寮に中学生だの小学生だの、偶然はそんなには重ならない。
あのリュックは、学区の中学校のものだ。
彼女の兄弟の同級生? しかし女生徒なら分かるが、相手は男子だ。
万が一の可能性に思い至ると、僕は少しばかり悔しくなった。
その女子に、とうとう話し掛ける事は出来なかったが、僕は惹かれていたのだろう。
転校するなど思いもよらない。僕はただ見ているだけだった。それだけで終わる筈だった。
会えない事が、あるかなきかだった思慕を募らせる。
彼女との繋がりを、個人的に強く感じられるのはこの場所だった。
手がかりとなるのはあの男子学生だけだった。
出てこないと分かっても、僕は暫くそこから離れられなかった。
曲がる直前の横顔と、後姿を出来るだけ鮮明に思い出そうとする。
しかしどこかで会っても彼と判別する事は出来ないだろう。
彼女の訪問先が彼とも限らないし、仮にそうであってもそれが僕に何だろう?
塾の時間に遅れそうになっても、僕はぐずぐずしていた。
それは予感だったのかも知れない。
諦めかけたその時、彼は出てきた。
私服に着替えてはいたが、確かに彼だと思った。背格好と、何よりそこは独身寮なのだ。
僕は歩き出す。彼は何かを考えているようで動きが鈍かった。
近寄って僕は彼の顔の痣に気づいた。
殴られたんだ。兄さんのそういう顔を見た事がある。
じっとそこを見ていて、彼と目が合ってしまった。
目を逸らすか、きっかけにするか、咄嗟に決められない。
彼は「やあ」と言った。そして頬を押さえ「すぐに冷やしておけばよかったんだ」と言う。
まるで親しい友人に話すような、そうでなければ空気に呟くような、
そんな口調だった。僕の目線は彼よりずっと下だったというのに。
「誰に やられたの」 僕は無遠慮に訊いた。
彼は気の利いた冗談を言うように「父親さ」と答えた。
そして歩き出す。それまでの迷いのある動きではなかった。
方向は僕と同じだ。少し無理をして並ぶ。彼は僕を見る。
「こっち」 僕は自分の行き先を指さした。「あの角を曲がって曲がってまっすぐのところの塾さ」
「へえ」 彼は驚く。「同じだ」
僕は塾の名前を言った。彼は「そうだよ」と言う。
「会った事ないよね。中学生? なら 受験コースだ」
「三年だからね。ああ 今日が初めて」
「もう11月だよ?」
彼は笑って頬を指さす。その事と殴られた事と関係があるらしい。
「ずっとサボってたんだ?」
「ちょっと違う」 最初の角を曲がる。
次の角を目指しながら、彼は来た方を振り返った。
僕が来た道筋がおかしい事に気づいたのだ。だが何も言わなかった。
「親から預かった受講料を 他に使ってしまったのさ」
「それじゃ」 殴られても仕方ない。
「君は何年生」
「4年。今日は算数の日」
答えながら、彼に彼女の事を訊くにはいい機会じゃないかと思った。
4年だよ 同じ学年の女の子を知ってるだろ?
しかし僕の口は違う事を訊いていた。
「何を買ったの?」
「ん?」
「他に使ったって。ゲーム?」
「夏期講習も春期講習も 全部さ」
そんな金額で買うようなゲームを僕は思いつかない。
いや。ゲームではないと彼は言いたかったのだろう。
「これまでのお年玉も全部合わせて それでぎりぎりだった。
冬期とクリスマスと来年のお年玉もあてにしていたんだけどな」
「一体何を買ったの!」 
僕の声に、彼は目を丸くして、掌で頬を包んだ。
「君までそんな怒るなよ」
「だって」
次の角を曲がる。そこまで来たら塾はすぐそこだ。
僕は慌てて訊いた。「じゃ じゃ これからは来るんだね? 受験講座だよね?」
「自力で受かるつもりだったんだ」 彼は言った。
それは父親に向けた言い訳と同じだったのだろう。



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by officialstar | 2012-08-20 11:06 | DOLL
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