烏鷺

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透 4



制服の寸法をとってきた。
彼にそれを告げたら少し驚いたように瞬きをし、「ああ そうか」と至極当たり前の事だと頷いた。
「入学式までここにいられたらいいけど」
今度は僕が驚く番だった。そして僕にとってそれは当たり前の事にはならない。
「引っ越すんだ。春に」
「どうして」
彼は説明する。
その部屋はもとは管理人夫婦用のものだった。
会社の独身寮で他の居室は全部ワンルームなのに、
この一角だけ住居らしい構造になっているのはそのせいだ。
管理を専門業者に委託するようになって空室になったところに彼ら父子が入ったのだ。
本当なら家賃に消えていく分を貯蓄に回してきたので、そこそこまとまったお金が出来た。
「部屋は狭くてもいいんだ 庭のある家に住んでみたい」
「ここにはもういられないの」
「とうさんも帰って来ないし。会社側は僕だけいてもいいって言ってくれてるけど」
「なら いいじゃない」
「風の通る部屋に置いてやりたいんだ」と彼は弟を見る。
土の匂いのする家。優しい風の渡る家。
彼の中にはその風景は出来上がっているようだった。
「行くの」
僕は僕のいないその世界に嫉妬した。
「ここにいると 待ってしまう」 彼は言った。
誰を。問うまでもない。だが僕にはそれは意外だった。
彼が親を求めているようには見えなかった。
弟とふたりきりの生活に満足しているのだと思い込んでいた。
僕にとって大人不在のこの部屋は現実の中の夢だった。社会の束縛さえ感じられない。
彼もその世界をただ愛していると僕は信じていた。
「僕は期待する事に少し疲れた」
「手紙を書けばいいのに」
彼は首を振る。「自分の家が欲しい」
「行っちゃうんだ」 僕は繰り返した。
引き止められるなんて考えてはいない。ただ僕が引き止めたいと思っている事を伝えたかった。
「4月までいられるように頼んでみる」 彼は誠意を込めて言った。
「新しい家はもう決まってるの」
「新しくはない。全然。古い 家だよ。長い事空家で お化け屋敷みたい」
「それでも いいの。そんなのがいいの」
「庭が広いんだ。縁側がある。僕は花を育てて 土の上を吹く風と草木の緑を弟に教えてあげる。
古い家は 生きている気がするだろう? 呼吸している気がするだろう。
僕たちはその中で生活する。その生命力が弟にもほんの少し宿るかも知れない」
「きっとね」
コンクリートに囲まれたこの部屋よりはずっと。僕だってそれを認めないわけにはいかない。
何より彼が決めた事、彼が最善と信じる事を否定するなど僕には不可能だった。
「寂しくなるけど」 僕は言った。「でも それまでは愉しく過ごせるよね?」


僕は自分でも意外なほどすんなりとその事実を受け容れる事が出来た。
最初から長く続く夢ではなかったのだ。
だが僕の一番辛い時期を緩和してくれた事、その事に僕は感謝しなければならなかった。
思うようにいかない現実だけれど、人形ほどには不自由ではない。
彼とずっと一緒にいられる弟は羨ましいけれど、でも僕には直接に彼と会話する事が可能なのだ。
彼が呼ぶ僕の名前に僕の声で返事が出来る。人形である弟に叶わない現実が僕にはあった。
その当たり前の幸福に気づけば、毎日は段々に楽になる。
僕がいじめと感じていた事も、僕がそこにいる証明ではあったのだ。そう。
彼等には明確な悪気はなかったのだから。
子供じみた無神経と残酷さがあっただけなのだから。
無視よりはずっといい。彼らはそこにいる僕をちゃんと見ていた。
僕は彼らの言動を無言でやり過ごすより向き合う事を覚えた。少しずつではあるが。
沈黙から一言、一言から一文、そして段々に自分の意思を。
だがそれも一時期の事で僕は笑う技術を身につけた。
冗談でかわす事。笑い話に流してしまう事。
それを処世術というのだと後から知る。
虚しい時間ではあったが、それでも完全に断ち切ってしまうよりはいい。
僕の現実はそれだけではないのだ。
僕の人生はそこで終わりではないのだ。

「卒業式の帰りに寄れるかな。お母さんと一緒かな?」
「友達と写真を撮ったり その後なら寄れるよ。母さんは最後までつきあわないよ きっと」
「そうか。僕たちからちょっとした御祝い 考えておくね」
「何も要らない」 僕は言った。「でもお願い聞いてくれる? 写真を撮らせて欲しいんだ」
「へえ?」 彼は心底可笑しそうに訊き返した。それから「いいよ。弟にもネクタイをさせようかな」と言った。

講堂での式の後、教室で先生の話を聞き、僕らは校庭に出る。
在校生と父兄が作る花道を通り、広い場所で解散となる。
鞄の中に荷物を詰め、教室の席でその準備をしていると、あの女子生徒が近づいて来た。
僕に向かって手を差し出す。
僕が眺めている中でその手を開いた。それは前に僕が返し、彼女が捨てた消しゴム。でも新品だった。
「変だよ」 僕は言った。「買わなければならないとしたら それは僕の方だもの」
「受け取っては貰えない?」
「だから理由がない」
彼女はそれを僕の机に置いた。
「捨ててもいいよ。私がそうしたみたいに。それでおあいこにもなる」
「捨てなくてもいい?」 僕は馬鹿正直に訊ねた。
彼女は笑った。
その笑顔の意味を知るのに僕は丸一日かかった。
その時は「ありがとう」と言ってポケットに入れただけだった。
「中学でもよろしくね」 彼女は言った。

帰りに約束どおり彼の家に寄った。
段ボールだらけになっていた。弟の周囲だけはいつもどおりだ。
「入学式まではやっぱり無理だった」
「今日会えたからいいよ」 僕は言った。
卒業の今日別れた方がきっといい。
僕はカメラを鞄から出した。
弟は半ズボンとブレザーにネクタイを結んでいた。
自分もそうなのかも知れないけれど、ネクタイを結ぶと少しだけ大人の顔になる。
僕は彼と弟、それから僕と弟で一枚ずつ撮った。
「僕はここがとても好きだった」
「うん」
「僕は弟くんがとても好きだった」
「ありがとう」
「そしてあなたも」 言って僕は泣き出した。

泣いても泣いても止まらない涙だった。





透   完
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by officialstar | 2012-08-11 11:26 | DOLL
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小説


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