烏鷺

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透 3


電話番号のメモは僕の御守になっていた。
夕方に二度その番号を押した事がある。コールが始まる前に僕は切っていた。
次に会って僕が彼らに、そして彼が僕に幻滅しないとも限らない。
そうなったら効力は切れる。僕にはそれが怖かった。
会わなくても僕は彼らを感じていられた。
教室からいつでも心をその部屋に飛ばせるようになっていた。
自分の半分がここにないと思えるなら、大方の事に耐えられるようになるのだと知った。
だから僕は彼らに会わなくても平気だし、だからこそ会わない方がいいと思った。
そして会いたいと思った。
記憶の中で彼の面差しは薄れ、その瞳だけが残る。
人形の表情のない、同時に全部の感情を訴える唇が浮かぶ。何かを語り出す直前の微かに開きかけた口。
声もなく音もない、その静止した時間。
彼らに会いたい。あの部屋に行きたい。
電話番号はそこにある。建物の場所も玄関の扉の位置も覚えている。
でも僕は行かない。

「やあ……?」 ためらいがちに誰かが僕の名前を呼んだ。
コンビニから出てきた人影だ。
その目の前を僕は通り過ぎていた。
僕は振り返った。そして彼の顔をすっかり忘れてしまっていた事に気づく。
「元気?」 彼は言った。
僕は数歩戻った。「あの朝よりはずっと」
彼はくすくすと「君はやっぱり賢いよ。なかなか気の利いた返事だ」と言った。
一度会ったきりの人に僕は懐かしい気持ちになる。忘れていた顔なのに僕は距離を感じない。
会いたいと願った憧れにも近い思いさえ、僕には蘇らない。
彼は当たり前のように僕の前にいた。
「来る?」と彼は言った。「今日はアイスだ」
「うん」と僕は答えた。
そして並んで歩いた。
彼は近況を問う事もせず、今買った新発売のアイスクリームの事を話した。
「でも それ一個しかないのに」
「家にバニラがあるから 半分コしよう。味見にはちょうどいいだろう」
その言い方は僕をくすぐったい気持ちにさせる。
年齢の差を取り払った物言いだった。出会いのきっかけを少しも匂わさない。
部屋に入ると彼は早速ガラスの容器と、冷凍庫からバニラアイス、
袋から買って来たばかりのカップを取り出して並べた。
僕は奥の部屋を指差して「いい?」と訊いた。
「いいよ。向こうの部屋で食べよう。あっちで待っていて」
戸棚からお盆を出した。
僕はそっと引き戸を開けて、中を覗き込んだ。
前と変わらず、でも違う服を着て弟が座っていた。
台所で音がしているのを確かめながら、僕は弟に「この前はごめんね」と囁いた。
人形である彼を羨ましがったこと。
自分の苦悩は決して彼には伝わらないと詰ったこと。
人形の唇がほんの少し弛んだような気がした。それは光線の加減でだが。
彼が背後で大きく戸を開いたのだ。
その部屋には窓があったが、障子は閉められたままで昼間でも薄暗かった。
彼はお盆を床に置くと、灯りをつけた。
障子を開ければ済むのにと僕は思った。それを読んだように、彼は「ここは一階だから」と言った。
「外から見えるんだ。部屋の中が」
座ると同時にグラスを持ち、残った器をお盆ごと僕に押した。
「さ 早く」
新商品よりバニラの方がおいしかった。僕がそれを言うと彼も同意した。半分コでよかったとも言った。
食べ終わると殆どすぐに僕は立ち上がった。
彼は引き止めなかったが、玄関に見送りながら「また おいでよね」と言った。
僕は心から「うん」と答えた。夢が壊れない事が分かった。
ここは記憶に閉じ込めた特別な空間ではなかった。
彼はいつでも自然に僕を迎えてくれる。幻滅するような理想はどこにもない。
建物を出て、僕は振り返った。彼の部屋の位置を見つける。ガラスの向こうに障子。
彼はあの人形を見られたくないのだ。僕は思う。
自分にとって全く違和感のなかった人形であるが、
その大きさも扱いも一般的とは言えないものだと、後になって気づいた。
子供の大きさの、子供の人形。
椅子に座らせ、時に服を着替えさせる。
それは少し奇妙な光景なのかも知れない。

電話番号は急な相談ごとのために渡したのだから、来たい時は直接寄ってくれていいと彼は言った。
僕はたとえば学校帰りなどの半端な時間でも顔を出すようになった。
彼は僕をお客扱いせず、時には留守番までさせた。弟とふたりきりのその時間を僕は結構楽しんだ。
独り言だけれど全くのひとりではないお喋りは僕の心を軽くさせた。
僕は言いたいだけ言って最後に「ごめんね」と付け加える。そして「ありがとう」と。
表情のない人形に変化を感じるようになる。それを彼に話したら、彼も頷いた。
「君が来た日は機嫌がいい」
「へえ」 僕はすっかり嬉しくなる。
僕たちは授業の話はしたが、彼に勉強を教わる事はしなかった。
そんな実際的な事で時間を費やしたくなかった。
そこでの事はただ無為である事が大切だった。何の益もない。
僕は何の役にも立っていないが、ここにいる事が重要なのだと感じていたかった。
僕にとっての彼もそうなのだ。
勉強をみてくれるおにいさんではなく、僕の傍にいてくれる誰か、
僕に何も求めずそこにいてくれる誰か、なのだ。
そこは居心地のいい場所だった。
大人の気配のない、追われる時間のない場所だった。

「おとうさんは ずっと帰って来ないの」 僕は訊いた。
「そうだね」 僕に後悔をさえない言い方で答えた。「もうずっと。
もう 帰って来ないのかも知れないと思えるくらい ずっと」
「忙しいんだ」
彼は上滑りに「そうだね」と言った。
それは僕の気持ちのままだ。



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by officialstar | 2012-08-11 11:12 | DOLL
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