烏鷺

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透 2


ふたりきり、という言い方も変かも知れない。でも僕はそんな気分だった。
ふたりきりになると僕はずりずりと畳の上を這っていき、人形の足元まで近寄った。
人形は当然ながら無表情だった。この世界のどんな事とも無関係な顔をしていた。
「お前はいいな」 知らず、僕は言っていた。
喋り始めたら止まらなかった。
人形なら学校に行かなくてもいい。人形ならからかわれる事もない。人形なら傷つく事も。
言っているうちに涙が込み上げてきた。
悔しいのと哀しいのと情ないのと。そして怖かった。
学校に行くのが。いいや。生きていくのが。
どうして人はそんなに簡単に他人を傷つけられるのだろう。
彼らにはきっと悪い事をしているという意識もない。
こづき回した次の放課に何もなかったような顔で話し掛けてくる。
先生の前でじゃれついてさえくる。遠足の班にも誘ってくる。
「怖いよ」
僕をいじめている級友は特別な人間じゃない。
この先、小学校を卒業しても、そんな人間のいる世界で生きていかなくてはならないのだ。
細い声で「怖い」と繰り返しながら僕は泣いた。
そんな風に泣くのは初めての事だった。
家の自分の部屋でだって声を出しては泣けない。そんな泣き方が出来るという事も知らなかった。
押し寄せてくる波に身を任せて僕は泣き続けた。
泣くのは心地よかった。
怖いよぉと声に出す事で恐怖は和らいだ。
鼻の奥が痛み、肩だかどこかだかが段々重くなったが、波は何度も僕を揺さぶった。
波に自分を預けてしまうのは決して不快ではなかった。

そしてその波は突然に途切れた。
僕は息を吸い、吐いた。
ズボンに出来た涙の染みを眺めた。僕の漠然とした恐怖感はそこに吸い込まれたようだった。
手で頬を擦った。顔を洗いたいと思った。
少し迷ったが、台所ならさっきまでいた場所だ。水道を使うくらい構わないだろう。
僕は何度も顔に水をかけた。気持ちよかった。
顔の熱が冷やされていく。
もう充分だと思うと同時にハンカチを用意してなかった事に気づいた。
ポケットにはない。持ち物検査用にランドセルの中に入れっぱなしにしてあるものしかない。
水滴だけでも拭き取ろうと手の甲で擦っていたら、
「どうぞ」とタオルが差し出された。
「ぅえ」
「洗面所を使ったらよかったのに」と片手にコンビニの袋、片手にタオルを持って彼が言った。
すいませんともごもご言いながら僕はタオルを使った。
柔らかくていい匂いがした。
ここのお母さんはきっと優しくてきれいなんだろうと何となく思った。
「あれ?」
「うん?」
タオルを返しながら僕は訊いた。「お父さんは仕事としても お母さんは」
彼はさらりと「いないんだ」と言った。僕はタオルを見た。
「僕が洗ったんだよ。この柔軟剤 好きだ。君も?」
「うん」 
訊いてはいけない事を訊いてしまった気になっていた僕は、その質問に救われた。
「父親もね 仕事は仕事だけれど この部屋には帰って来ない。実質僕は今ひとり暮らしなんだよ」
「ええ?」
「すごいだろ」
それは僕の動揺を宥めるための言動だったのだろう。
彼は得意げに掃除も洗濯も全部やっているのだと言った。
父親がいた時からその半分は引き受けていたのだからどうという事はないと。
「お母さんはいつ……」
彼の気楽な様子につい立ち入ってしまった。
僕は途中で質問をかみ殺したが、彼に聞こえていない筈がない。
「弟が死んで その後」
「僕には妹がいる」 僕は早口に言った。「でも可愛くも何ともない」
彼の目が面白そうに笑った。
「お母さんだって! あんないい匂いのする柔軟剤があるなんて知りもしないよ」
「君の妹は知らないが 君みたいな弟だったら可愛いと思うよ?」
僕は真っ赤になった。
「僕 なんか」
「君はいい子だよ。そうだろう」
テーブルに買い物とタオルを置き、時計を見た。
「学校に送っていこうね?」
そこに感じた半ばの強要に、僕は思わず言っていた。
「また来てもいい?」
それがまるで交換条件でもあるように。
要求する権利などあるわけもなかったと後になって思ったが、彼は「勿論」と言った。
そして部屋番号と電話番号を紙に書いてくれた。
僕はそれを注意深く仕舞った。宝物であり、お守りである気がした。
これがあれば今日一日頑張れる。


その日、僕が学校に到着したのは授業中だった。
彼は放課に合わせて時間を確認したのだが、僕はわざと授業にかかるようにした。
猶予が欲しかった。
残りの授業時間、僕は心の中で予行演習を繰り返した。
そして先生が教室を出て行くと同時に、
僕が消しゴムを取り込んでいた女子の机に行き、そこにその消しゴムを置いた。
朝のうちに僕の事はバラされていたらしい。
彼女は少し迷惑そうに僕を見上げ、そして様子を眺めている周囲を覗った。
「消しゴムを黙って持っていてごめんなさい。返すけれど きっとそれはもう使いたくないと思う。
代わりのを買うお金を明日持ってくるから それで許して下さい」
僕はひといきにそれだけ言った。ほぼ台本どおりだった。
彼女は机に置かれた消しゴムを指先で持つと、席を立ってゴミ箱まで歩いていった。
覚悟していたけど少し辛かった。でも悪いのは自分だと言い聞かせた。
彼女はその場所で言った。
「もう新しいの買って貰ったから お金はいい」
「でも」
「お母さんに説明するの面倒なの」
僕はもう一度「ごめんなさい」と言って自分の席に戻った。
連中がからかいに来るだろうと思ったが、誰も来なかった。
僕はじっと石のように動かず放課を過ごした。

心の中をあの部屋にしようと試みた。
そこに彼と、人形がいる。



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by officialstar | 2012-08-10 10:26 | DOLL
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