烏鷺

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透 1


どうして透という名前にしたのか、親に訊いてみたいと思った年だった。


透の字が透明の透だといいのに。
透明人間になればいじめられる事もなくなる。
その日登校したならば前日の件で責められる事は分かっていた。
昨日約束の場所に僕は行かなかった。
同級生の女子の家の前。
そこで僕は、
拾った彼女の消しゴムを黙って持ち帰った事を告白しなければならなかったのだ。
できるわけがない。
学校に行きたくない。
もしかしたらもう言いふらされていて、教室中が僕を笑うかも知れない。
透のくせにと指差されるのだろう。

「走った方がいい時間だと思うけど」

ずっと下を向いていた僕の目に、靴の先が見えた。
顔を上げると若い男の人が立っていた。
「間に合わないだろう?」
「いいんだ」 咄嗟に言っていた。
言ってから後悔した。この人は僕を叱るだろう。それとも無理矢理学校まで引っ張っていくかしら? 
そうしたら僕はもうどうしようもない笑いものだ。
「気分が悪い?」 最初と変わらない声だった。
特別に優しくもなく、どんな感情も伝わって来ない抑揚だった。
僕は黙っていた。
「僕の家で休んでいく? ちょうど」と持っていた袋を肘を曲げて持ち上げて見せる。「プリンとか 買って来た」
僕は驚いた。そしてそれ以上に驚いたのは自分が「うん」と答えていた事だ。
彼のあとについて僕は建物に入った。
どこかの社員寮の筈だ。この人はそこの社員なのか? 仕事は?
「そこでいい?」
室内に入り、彼はダイニングキッチンのテーブルを指差した。僕は頷いて座った。
持っていたコンビニの袋をそのまま置いた。
「ゼリーとプリン ヨーグルトもある フルーツの入ったの。どれがいい?」
食べたくはなかったが、僕はプリンを選んだ。彼は自分用にヨーグルトを取り、残りを冷蔵庫にしまった。
スプーンを口に運びながら、その男の人を覗った。
思っていたより若い。ずっと若い。若いんじゃなくて子供なのではないか。
勿論僕ほど子供じゃない。高校生くらい。
「学校に 電話を入れておこうか。騒ぎになると嫌だろう? 僕の声 大人に聞こえるから多分大丈夫。
登校途中で気分が悪くなったので少し様子を見る でどうかな」
僕は小学校の名前を言った。彼は電話台の下をかき回して番号を探した。
学年とクラスを言った。担任の名前も言った。
それから「どうして?」と訊いた。
「少し休んだら きっとよくなると思うからさ。無理したら悪くなる」
電話口の彼は落ち着いていた。静かな口調なのに相手を威圧する響きがある。
担任もまさか相手が自分よりずっと若い、んじゃなくてまだ学生だなんて思いもしないだろう。
「よくなったら校門まで僕が送ることにしたよ。よくならなくなったら欠席。その時はまた電話する」
「どうして?」 僕はまた訊いた。
それは何故そんなに親切なのかという意味だった。
「僕も同類だから」
そうだ。彼が高校生ならば彼だって学校に行っていなくてはならない時間だ。
「それと君くらいの弟がいたから」
「いた?」
彼は少し寂しそうな目をして頷いた。僕は彼にはもうその「弟」はいないのだと察した。黙って目を伏せた。
「君は賢いね。そうだよ。生きていれば君と同じ6年生だ」
「賢くなんか ないよ。成績悪いもん」
「成績なんか」 彼は僕の口調を真似て言った。
僕らは笑った。でも彼はすぐ真顔になった。
「学校の成績なんてどうでもいいよ。僕はそう考える事にして 学校に行くのをやめた。
そうしたら勉強が愉しくなったよ。僕は自分で勉強して大学に入る」
「そんなこと……出来るんだ」
「ひとつの選択肢だ。そういう道もあると分かれば 楽だろう?」
僕は横の椅子に置いたランドセルをちらと見た。
「うん。君は学校に行かなくてはならない。行った方がいい」
彼は立ち上がり、僕の前の空き容器と、結局手つかずの彼のヨーグルトを手にした。
一方を流し台に、もう一方は冷蔵庫に。
「行きたくない」 僕は言った。
行けばからかわれる。殴られたり蹴られたりはしない。だから先生に助けてもらう事も出来ない。
取り囲まれて囃されて笑われて。好きな女子の事までバレてしまってもうどうしていいか分からない。
彼はテーブルの横に立って僕を見下ろしていた。僕は彼を見上げた。
涼やかな目をしていた。人の目が澄んでいるという事実を僕は初めて認識した。
その純粋な瞳を彼は前髪で隠していた。
見上げなければその眼差しに出会う事は出来なかっただろう。
彼はきれいだった。それは美少年とか美青年とかの意味ではなく、存在がきれいだった。
この人に聞いて欲しいという気持ちと、彼にだけは知られたくないという思いが混じった。
「まだ気分が悪いのなら 少し横になるかい」
彼はそう言って僕の後ろにあるドアを開けた。僕は立ち上がり、振り向いた。
部屋の中に誰かいた。
一瞬僕はそれを鏡かと思った。僕の姿が映っている。しかしその人影は椅子に座っていた。
「誰?」
「弟」 彼は言った。
でも弟は……
僕はその部屋に入った。それは人形だった。
等身大に近いかも知れない。僕よりは小さかったが、小学生の男児には見えた。
「隣は 父の部屋だから 勝手には入れないんだ。クッションがそこにある」
床に座ったが、寝転ぶまでは出来なかった。
彼は立ったまま「買い物をひとつ忘れたんだけど」と言った。
「行って来る?」 僕は訊いた。
「いいかな」
「僕はここにいても?」
「君がいいなら」
僕を学校に送るならば、その帰りに買う事も出来る。しかし僕はそれを口に出さなかった。
彼は人形の方を見、それからもう一度確かめるように僕を見た。
「いいかな?」
「ここで……待ってる」
彼は微笑み、財布を持って出て行った。





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by officialstar | 2012-08-10 10:17 | DOLL
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