烏鷺

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星を問う 18

佳苗の母親が来た。一周忌である。
君子はしばらく接待で忙しく、話すことが出来なかったが
食事の席で隣り合った。
雑談で過ごした後、佳苗の母は体を少し倒して、
「あの人は来ていないのね」と言った。
「あの人って?」
「忌明けの時に ほら」
篠原惠の事だと思いつく。君子はもう思い出す事も稀だった。
しかし佳苗の母は彼女の事は何も知らない筈である。
確かにあの場の采配ぶりは女主人然としていて不快ではあったが、
今となってはどうでもよかった。
「篠原さんの事かしら? 今回は私がいたから頼みませんでした」 
「あら そう」 佳苗の母はもう一度周囲を見回し、声を潜めた。
その素振りが妙に気に障る。
「あの人 あれ 卓さんのいい人でしょう」
「え?」
「小山内さんの浮気相手」
君子は動揺を隠した。目で小山内と青木の位置を確認する。
「どうして? 彼女は佳苗の後輩でしょう。大学と 職場の。
青木とも面識があったから手伝いを頼んだんじゃ……」
佳苗の母は納得しない。いや。浮気相手という事で納得済みなのであった。
首を振り「いいの」と言う。
「何が」
「佳苗があんなだから 夫が愛人を作ったとしても諦めるしかないの」
「どういう事ですか」 知らず声が大きくなる。
君子は視線を感じて俯いた。気の抜けたビールのコップを手に、口を湿らせる。
どう訊けばいいのか考えを巡らせているうちに、佳苗の母の方から喋り出した。
「子供のころから喘息やら皮膚炎やら。あんなでは夜のお務めも満足頂けないと心配していたわ。
相手の人に浮気されても仕方がないでしょう。肌も若いのにきれいじゃないし」
「そんな事」 君子は抗議しかけ、それを呑み込んだ。
背中の一部以外佳苗の肌は特に荒れているわけでもなく、
たとえそうでもそれを補う魅力や特技はあった。
だがもうそんな事はどうでもよかった。それは自分や、何より小山内が知っている。
今更この母親の見解を訂正させたところで意味はない。
それよりも君子の感情をざわつかせる疑念が抑えられない。
「もしかして それを佳苗に言ったりは」
「したわよ」 さらりと答えた。「高校生ぐらいの時かしらね。結婚前にも言ったかしらね。
卓さんにも重々お詫びもしておいたわ。至らない子だからと」
頭に血が上り、言葉が浮かんでこない。
佳苗の母は悪びれず、どころか自慢げに滔々と話す。
もう何も入ってはこない。怒りは血流となり頭痛を呼ぶ。
君子は座卓に手をついて立ち上がろうとし、それを思い留まる。
「もし そうだとして 仮に あの女性と小山内さんが浮気をしていたとして
……佳苗は気づいていたのでしょうか」
「さあ」 母親は料理を口に運び、批判めいた感想を洩らす。
「佳苗が知っていたならば あの事故はもしかして」
「あれは事故」 佳苗の母はきっぱりと言う。
箸を置き、君子に顔を向ける。「事故だと最初に言ったでしょう。事故だわ。
夫の浮気ぐらいで自殺なんてしていたら 世の中の女の半数はいなくなる」
「そんな……」
佳苗の母は再び箸を取るが、左手に受けたところで動きを止め、料理の皿を見据えた。
「正妻は子供を産んで育てていればよし。男の子を産めば安泰。
女の一人や二人 慌てる事などない。佳苗にはそう教えてあります」
君子は唖然とする。いつの時代の話か。
いや。
言葉にこそしないが、現代の女たちもそうやって事実を呑み込んでいる。
夫の浮気に泣いた友人が他にいないわけではない。
彼女らは家庭を維持することで自分を守り抜いた。
それは即ち、時代錯誤に聞こえる、この佳苗の母の発言のまま。
……だが。
気配に、顔を横に向けると、式服に包まれた脚があった。
見上げた目に、ビール瓶を持った手が映る。
小山内は佳苗の母のグラスにそれを傾け、君子に目配せをする。
無意識に頷いて君子は生温くなったビールを乾した。
注がれたそれは冷たく喉を潤した。沸騰しそうな頭も冷えた。
小山内は君子の肩を軽く叩いて隣の卓に移った。
誰もそんな思いを抱えて結婚はしない。
祝福された友人たちの笑顔の中にそんな陰りはなかった。
君子は結婚式の佳苗を思い出す。
悠斗の出産を祝いに訪問した時の彼女を思い出す。
弾けるように、或いは誇らしげに笑う友人たちと比べ、そのつつましやかだった事。
それは独身の君子への気遣いだとばかり思っていた。
のろけも苦労話も全部呑み込んで、佳苗は学生時代と同じに君子に接しようとした。
あれは君子だけのためではなかったのか。


切なくて。

何の不自由もない日々に、どうして虚しくなるのでしょう。
自分をただ自分にしておくことが何故こんなに難しいのかしら。
学園の中では私はいつも私だけでいられた。

あのころに戻りたい。
あの星が丘の駅から もう一度歩きたい。


読経の間零れなかった涙が込み上げてくる。



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by officialstar | 2012-08-02 17:43 | 星を問う
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