烏鷺

bbbrats.exblog.jp ブログトップ

優奈 4


何も言えなかった。
私は部屋を出て、靴を履いた。
とぼとぼ帰る途中で涙が出てきた。何の涙か分からなかった。
家が近づくにつれ、悲しみは私のものとなり、涙は意味を得た。
玄関を入り、母を探す。
段ボールのひとつの前に母はいた。
捨ててもいいようなTシャツを両手に、母は立っていた。
「嫌だよ」 私は言った。
母はシャツを箱に落とした。
空いた手の中に私は飛び込んだ。
声をあげて泣く。母の両手が私の背中に降りてきた。
私は夢中で母にしがみついた。母の腕が私を抱く。

その日から段ボールは減っていった。
段ボールの中身の大半はごみ袋に移された。
時々は手伝って集積場に持っていく。
私は父親に手紙を書いた。母はまだ一階で寝ていたので、父のベッドにそれを置いた。
返事はなかった。かわりに父は朝ごはんの時間を遅くした。
朝食を私と食べて姉の顔を見てから会社に行く。
母とはあまり口をきかない。母が二階に戻ることはなかった。
それが普通かどうか、自分が結婚するまで分からない。
だが少なくとも姉と離れる事も転校させられる事もなくなったのだ。
私はほぼ毎週彼のところに行き、報告をした。
段ボールが全部なくなって、母の泣き声もしなくなった。
家に帰るのは相変わらず憂鬱だったが、
姉が、楽しみはこれから外に増えていくと言ったから、それでいい。
彼は弟を私に見せて以来態度が少し変わった。
私に対して「辛い」言葉づかいをする事がなくなり、
時々は弟を膝に抱いて私と話した。
私と同い年だと言うのなら、その人形は作られてから何年も経っている。
少し疲れて見えた。無表情に宙を見つめる様子はその短い人生を思わせて悲しい。
その髪を撫でる彼の指の繊細さに私は腹を立てた。
弟が私の年なら自分の友達もいるだろう。ひとりで過ごせるだろう。
部活もせず父親とも仲違いして、人形を抱いている彼が哀れに思えた。
「私ね」 ある日思い切った。「できる事やったよ。お父さんに手紙書いたよ。
それでお父さん 一緒に朝ごはん食べるようになった。話す事も増えた。
私の事そんなに嫌いじゃないって事も分かった」
「そうだね」
「やりたいことやらなきゃ。言いたいこと全部言った? 今のままでいいの」
彼は髪を撫でる手を止めた。
両手で人形を囲み、じっと見下ろす。
俯いた目にまつ毛が被る。姉より長いと気づく。
彼は下を向いたまま「そうだね」と言った。

次の週、私は寮の前で立っているのを姉に見つかった。
何をしているのと訊かれて、別にとしか答えられない。
姉と並んで帰り、一度振り返った。彼がいた。
私はそのまま歩き続けた。
そしてそれきり訪問をやめた。最後の時にぶつけた言葉がしくしくと私の中に残っていた。
俯いた彼の姿に、私の、「普通の」生活を守り抜いたという意識を咎められている気がした。
そのとおり私は家庭に留まり、彼は弟の人形を手放せないでいる。


半年後私は結局転校する事になった。
父に転勤の辞令が出た。単身赴任という選択肢もあったのだが、父が拒んだ。
私の手紙を母に見せ、家族は一緒にいるべきだと言ったらしい。
家族の体面は保っていても、どこか不安定だった。
離れたらそれきりになりそうな、その予感は誰もが持っていた。
姉は力なく受験を訴えたが、母は聞かなかった。
家の中に再び段ボールが溢れ、今度は私もそれに詰めていかなくてはならなくなった。
姉は最初から母には離婚する覚悟などなかったのだと言った。
冷えたままの関係にしておけば、父は単身赴任したに違いないのにと、
私が手紙を書いた事を遠回しに詰った。
しかしあの時に何をすればいいのか分からなかったのは姉も同じだ。
離婚の可能性がゼロに近いと確信したのなら私を安心させてくれたらよかった。
母の真意など私にどうして見抜けただろう。
それに私はまだ親の愛情が必要な年齢だったのだ。父であれ母であれ。
父の、愛情とはいえないまでも関心が自分に全くないと思わされるのは悲しい。
手紙を書いてそれが奏した効果は私を支えてくれた。
転校は嫌だったが、一方で父が単身赴任を拒んだ事が私には嬉しかった。

彼のところにお別れの挨拶に行った。
「そうらしいね」 彼は言った。
終業式に担任が告げたのだ。姉は一緒に三年生になれないと。
私は自分の書いた手紙が結局は転校を招いたと告げた。
「後悔してる?」
分からない。正直分からなかった。後悔という事自体が。
「でもね 僕もやろうと思う。自分がやりたいと思う事を。
君に言われてから お金を貯めてる。小遣いと お昼代とかね。
お年玉の貯金と合わせて 頼みに行こうと思ってるんだ」
「何を? どこへ」
「人形師さんのところ。新しい弟の 9歳になる弟の人形を作って欲しいって」
目を輝かせて語る彼は半年前の彼と別人に見えた。
長い睫の下の瞳はきれいに澄み、荒んだ空気は部屋から消えていた。
「弟の写真と 僕が9歳の時の写真を持っていく。三歳の弟は母さんに返す。
今度こそ弟は僕だけのものになる。そうだろう」

彼があまりにも楽しげに、あまりにも誇らしげにそれを言うので、
私は両手を合わせて賛同と応援を示してしまった。
事の重大さに気づいたのは何年も後だった。




優奈 完
[PR]
by officialstar | 2012-07-01 15:46 | DOLL
line

小説


by officialstar
line
クリエイティビティを刺激するポータル homepage.excite