烏鷺

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達央 1


あれは僕が7歳の時だった。
僕は、当時住んでいた社宅の前の道で泣いていた。
何人かの人が通り掛かったが、声を掛けてきたのは彼だけだった。
どうしたのと訊かれて返す言葉を僕は用意していなかった。
訊いて欲しい相手は見知らぬ他人じゃなく、家に迎え入れてくれる人だ。
彼は暫く傍にいて、それから諦めて建物に入っていった。
同じ社宅の住人だと、その時知った。僕は彼を知らなかった。
返事さえしなかったくせに、彼に見捨てられて僕は傷ついた。
声を掛けられる前とはまた違う悲しさで泣き続けた。
「ほら」 俯いた顔の前にタオルが差し出された。
啜ろうとした鼻水がその上に落ちた。
僕は慌ててそれを取り、顔を押さえる。
目だけ出して相手を見た。
伸び過ぎた前髪から彼は僕を見た。目が合うと笑った。
「ほら」と今度はペットボトルを持ち上げて見せる。
僕が受け取れずにいると、空いた手でタオルを持って僕の顔を拭き、
「泣いて喉が渇いただろ?」と僕にペットボトルを持たせた。
僕はしゃくりあげ、彼を見ながら、手は本能ゆえか蓋を回していた。
二口三口飲み、蓋をしてラベルを見る。
「炭酸の方がよかった?」
「うん」
「そっか じゃまた今度ね」
彼は言って背中を向けた。
その影が社宅の門に消えていくのを見送り、僕は壁に背を滑らせて座り込んだ。
握ったペットボトルの蓋を開けては一口飲み、閉めては眺め、開けては飲み。
泣く気持ちは消えていき、自分が泣き出した理由も忘れかけた。
ちびちびと飲んで空になったペットボトルを持って僕は立ち上がる。
家に帰ろうとして、ボトルを持ち帰ったら咎められると思いつく。
そんなものに小遣いを使う事を母は嫌がっていた。
僕は郵便受けの名前をひとつずつ読んでいった。
無駄な事だとは分かっていた。
彼に見覚えがないという事は引っ越してきた人かも知れないが、
住人の名前を全部僕が覚えているわけもなく。
だが中に一枚だけ色の全く違う紙が入っているのを見つけ、僕は彼がそれだと決めつけた。
その部屋の前に空になったペットボトルを置き、僕は家に帰った。

母は僕の家出など気づきもせず、いつものように夕食を用意していた。
それを食べながら最近越して来たうちはないかと訊いてみた。
「三階に そういえば」 母は言った。僕が置いてきたのは一階だ。「それが?」
「分団がさ」 僕はごまかした。「小学生はいないんだね」
「中学生でしょう。坂下さんが制服の事 訊かれたとか言ってたわ」
中学生。僕はひそかに驚いた。
一階に置いてきた空ボトルの事はすっかり忘れ、僕は頭の中の印象を探った。
中学生なら、去年まで一緒に登校していた裕樹くんと変わらない。
「宿題はしたの? 時間割は。ずっと外で遊んでいたでしょう」
「だって」
僕は思い出そうとした。母が何かを僕に言ったのだ。僕にやったのだ。
抗議したくて、でも出来なくて僕は家を飛び出したのだ。
悲しかった気持ちだけは覚えている。悔しい思いは消えていない。
「だって あれは」
何? と母は僕を睨んだ。僕は黙る。
母が怒りっぽくなったのはいつからだろう。昔はもっと優しかった気がする。
学校に上がってテストとかの点数を持ち帰るようになってからだろうか。
残りのご飯を押し込むように食べ、僕は隅に置かれた勉強机に向かう。
洗い物の音を聞きながら宿題のプリントをやった。
算数のそれは、九九の穴を埋めていくだけだ。
頭の片方でそれを解き、もう片方で彼のことを考える。
裕樹くんに訊けば分かるだろうか。

「ああ 隣のクラスだ」 裕樹くんは言った。
学校帰りだから制服のままだ。
「あそこ お母さん いないんだぜ」
「そうなの?」 だから裕樹くんとは違うのか。「どうして。どこから来たの?」
「知らない。母さんなら知ってるかもな。喋ったの母さんだから」
制服の事を訊かれたと言っていた。「お父さんと?」
「いーや。本人と。しっかりしてるわ とかやたら褒めてた」
ああ。やっぱり。「お父さんと二人暮らしなんだ?」
「だろうね」 興味ないと言わんばかりにあくびをする。退屈していた。
僕は「中学はどう?」と訊いてみた。
だが裕樹くんは僕と話す事に熱心でなかった。
6年生と一年生の関係は中学生と小学生の関係と全然違うものなのだろう。
「塾 あるから」と階段を上がって行ってしまった。
所在なくぶらついているところに、彼が来た。
同じ制服姿。リュック型の通学かばんを片方の肩に掛けて入ってきた。
本当は両方の肩に背負わなければならないのけど、崩れた感じはしなかった。
「ああ」と僕を見て言った。何かを言いかけてやめた。
僕はぺこりと頭を下げた。ペットボトルのお礼のつもりだった。
「ここの子だったんだ。僕は越してきたんだ」
「知ってる」
「そうか。よろしくね」
「よろしくしても仕方ないだろ」 僕は言った。
少しばかり拗ねていたのだ。制服を着たというだけで大人の仲間入りをしてしまう。
あの裕樹くんからしてそうなのだから、彼は僕を全くの子ども扱いするのだろう。
「そうなの」 彼はがっかりしたように言って、階段を上り始めた。
僕は思わずその後を追う。「だって 話合わないし」
「いろいろ聞きたいよ?」
「何」
僕が同じ段まで上がるのを待って、彼は次の段に足を掛けた。僕も同じ。
「このあたりは何が流行っているのか とか。校長先生は男か女かとか」
「おれ 小学生だよ」
踊り場を回り、二階に着いた。彼は足を止めて僕を見る。「勿論?」
「カードとか。校長先生はネクタイを毎日換えてて 今日はひよこ柄だった」
「へえ」 大人のように目の横にしわを寄せて表情を作った。
僕は夢中で話し続ける。
知らぬ間に三階に上がっていた。
彼はドアを指さし、「来る?」と訊いた。「炭酸 あるよ」
そんなものはもうどうでもよかった。





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by officialstar | 2012-06-25 11:17 | DOLL
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