烏鷺

bbbrats.exblog.jp ブログトップ

さえ 3



彼が注いでくれた紅茶に、私は今度は砂糖とたっぷりのミルクを入れた。
一口飲むのを待って、彼は先程指差した部屋のドアを開けた。
部屋の中に入り灯りを点ける。電灯が瞬く間私は目を細めていた。
「え?」
彼は椅子の背に手を乗せていた。その椅子にはひとりの少年が座っていた。
弟なのだろう。
熱を出して寝ているのではなかったか。
「嘘 なんだ」
「どうして」 答えは分かっている。母親に会わせたくなかったから。「でも どうして?」
彼は私を手招きする。
私は少年を見ながら立ち上がる。少年もこちらを見ている。
見て……
「ええ?」
「分かった?」 彼は問う。
「瞬き しない」
「うん」
私はテーブルの脚に躓いた。カップが音を立てる。
部屋の入り口に行き、中に入る事を躊躇った。そこが境界であるような気がしたのだ。
「おいで?」
私は一足踏み込んだ。
ベッドと洋服ダンス。書斎机と椅子。そして少年が座っているロッキングチェア。
「彼を弟だと 君のお母さんに紹介するわけにはいかなかったんだ。分かるだろう」
「人形 なの」
「僕以外の人にとっては」
「ああ」
その事実を彼が客観的に認識しているのだとしたら、彼は正常なのだ。
疑うつもりもなかったが、それは大切な事だ。
「怖い?」
「何が?」
彼は微笑んだ。彼は私の手を取ると、少年の頬に当てた。
人形の事は殆ど知らない。これくらいの大きさになると特注になるのだろう。
掌に感じる質感は思った程違和感がなく、そこに体温が宿れば生身と変わらない気さえした。
そして暫くそうしている間に、掌の温もりが彼に伝わったようだった。
私はそっと手を動かして彼の頬を撫でた。
「私と同い年って言ってたけど 少し幼いかな? クラスの男子はこんな可愛くないよ」
「病弱 だからね」
「うふふ。でも少し顔色よくなったよね? 私のお陰で」
「よく分かったね」
私が手を離すと、彼は戸口に向かった。
そのままテーブルに戻ったので私も続いた。紅茶はまだ冷めていなかった。
「だから彼の存在が 君のお母さんが心配したように勉強の邪魔になる事はない。
ただ 君がいる間 あの部屋のドアを開けておきたいんだ」
「弟くんも一緒に勉強するの?」
「それもいいね」 彼は空になったカップを片付け始めた。
トレイをキッチンに運び、テーブルを拭くと私を促した。
私は鞄から塾のテキストとノートを出し、さっき放り出した筆箱を開けた。
「へえ 女の子のペンケースってにぎやかだね」
雑談はそれまでで、それからの二時間私は信じられない程集中した。

ほぼ毎週私は通った。
一ヵ月後の学校の考査で早速成果が見えた。親は喜ぶより安心したようだった。
その気持ちが何故だか私には分かってしまった。
結果さえ出れば親は私を放っておける。
成績に反映されなければ意見のひとつも言わなくてはならないのだ。
母親は彼に好感と不安を同じくらいに抱いていた。
私が見せた順位表は彼女の不安を薄れさせ、好感度を上げた。
理解が進み、それが数字として出れば勉強は苦痛ではなくなる。
私は普段の学習も以前より熱心になった。
そうでなければ彼と会えなくなる。何より彼を失望させたくない。
「あの子も 順調?」
「誰だって?」
「金曜日に家庭教師している子」
彼は「どうかな」と言った。「少しは上がっているようだけど」
「少しだけ」
「君ほど熱心ではないしね。僕との相性もあまりよくないのかも知れない」
私は少し驚いた。
彼と合わない人なんているのかしら? もしそうならばそれはその生徒の贅沢というものだ。
私のように切望して彼を得ていないから、多分私の塾のように親からの押しつけになっているのだろう。
「気が散ってきた? 休憩にしようか」
彼はそう言うとキッチンに立った。冷蔵庫に母に言われて私が買って来たケーキが入っている。
その箱を取り出し、中を覗いて彼は笑った。期待どおりの笑顔だ。
私はケーキを三個頼んだのだった。
「弟を運ぶから」 彼は言った。「椅子を出して来てくれるかな。引き摺ってもいいから」
私は返事のかわりに立ち上がって、弟の部屋に入った。
彼は人形を、人間を抱くように丁寧に持ち上げた。私は急いで椅子をダイニングテーブルの横に動かした。
「さ いいよ」
振り返って私は途中で止まってしまった。
彼の腕の中で小柄な弟はお姫様のように可憐に抱かれていた。
弟への愛情がその肩を支える指先にまで溢れている。
「ありがとう」
声を掛けられても私の胸に広がった嫉妬は鎮まらない。
彼は椅子の中に弟の身体を納め、キッチンにティーセットを取りに行った。
ケーキは三つ。ティーカップも三脚。
当然弟は会話には加わらないが、私たちはふたりきりではなかった。
ケーキを三個買った事を私は後悔していた。
だが彼の笑顔を思うならば、次の機会にも私は同じ事をするだろう。
残ったケーキは彼に勧められて私が食べてしまった。
紅茶を注ぎながら彼はにこにことそれを眺めていた。優しい眼差しだった。
私が弟に対抗できるのは後他に何があるだろうと、馬鹿な事を私は考えていた。




次へ
[PR]
by officialstar | 2012-06-27 15:13 | DOLL
line

小説


by officialstar
line
クリエイティビティを刺激するポータル homepage.excite