烏鷺

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さえ 1

4人掛けのテーブルをひとりで占領しノートを広げて二時間経過。
いつもなら気が咎めるところだけれど、
とにかくむしゃくしゃしていたから世界中に嫌われてもいい気分だった。
ノートには数字。開いたテキストにはやたらと線の多い図形。
分かる筈がないと毒づきつつ、それでも三問は解いた。
あと一時間。あと二問解けたら塾をサボった罪は消えるのだと何となく決めた。
だが手掛かりが皆目見つからない。あと50分。意地の悪い数字だから計算にだって時間がかかる。
「ここに線を入れてご覧」
突然指と声が降ってきた。
驚いて見上げると、大学生くらいの男の人がテキストを覗き込んでいる。
再びテーブルに視線を落とす。きれいな指。爪の形がいいのだ。羨ましい。
「ほら 前の問題は解けたんだから大丈夫。ここに線を入れてご覧。そうしたら見えてくる」
言われるままにフリーハンドで斜めに線を書いた。
「あ?」
「うん」
「ああ!」 消しゴムでその線を消して、今度は定規を使って入れ直す。
図形問題は不思議だ。絶対に分からないと思った問題が、一本の線で魔法のように姿を変える。
「これを使うのね。こことこの比が こことここで ええっと」
「そうそう。後はオーライだね」
と離れようとする袖を私はがっしと掴んだ。
「次」
「うん?」
「次の問題。ヒント。行っちゃう前に」
「別に急がないから」と彼は私の前の空席を見る。私は大きく頷いた。
彼は自分のトレイを片付けてきた。
コーヒーでも奢るべきところだが、そんな余裕は時間的にも経済的にもない。
自分のコーラとポテトで小遣いを使い果たしている。
「先に最初の問題 やっつけちゃえば? 待っててあげるよ」
「これ これは何を使えばいい?」
「結構難しい事やってるね。ここを見てご覧よ。これで判断するんだ。
この場合円に着目だなって。ほら 半径と接線の」
「あああ」 私は少し大きすぎる声で叫んだ。
苦手なのだ。何回教えられても円の特性が上手く使えない。
「そっか。そうするとこことここの角度が出るから こっちがアレで そっちは円周角だ。
で相似が証明されるから……」
「座るまでもなかったね」と彼は立ちかけた。
私はその手を、袖でなく直接に手を、握った。「まだ」
「まだ?」
「前のページ。答えは出たんだけど 何でその答えでいいのか今ひとつ」
彼は笑いながら「どれどれ」とページをめくった。
そこで漸く私は自分の大胆な行為に気づいた。内心で「きゃ!」だ。
だが彼は照れたりも怒ったりもしていない。
彼は指で私の書いた数字をひとつずつ押さえていく。その爪はやはり羨む程にきれいだった。
「これはどこの数字を入れたの。どうして入れたの?」
私は説明し、説明しているうちに自分で理解した。
自己完結している私に呆れもせず、彼は私を誉めた。
私は嬉しくなっておしゃべりで彼を引き止めた。彼は私のテキストをめくりながらそれを聞いていた。
頷いたり笑ったりするタイミングで彼がただ聞き流しているのではない事は分かる。
「それでいくと今日のこの時間は塾で講義を受けているのではないのかな」
「えへへ」 私は認めた。
塾の空気が嫌で講師が嫌いで、ちっとも成績が上がらない自分にうんざりしていた。
私が頑張った分だけ周囲もやっている、篩にかけるために問題は難しくなっていく一方。
しかも私は決して理解が早い方ではない。
「そう? でも解けたじゃない」 彼はにこにこと言った。「ちょっとしたコツだよ」
そして時計を見て、「君の言っていたリミットの時間だ。家に帰るんだろう?」と言った。
私は慌ててテーブルの上のものを鞄に押し込んだ。
鞄を肩に、トレイを片手に彼に向かって「ありがとう」と言った。
「それと……ごめんなさい」
「どういたしまして。全然だよ」
私は頭を下げてテーブルを離れた。
ゴミ箱のところに店員さんがいてトレイを受け取ってくれた。私はまたありがとうとごめんなさいを言った。
「どういたしまして」
いい言葉だ。

それで暫くはいい気分でいられたのだが、
次の通塾でまた打ちのめされ、その次の講義には行く足はひどく重かった。
そんな事でいいわけはないし、時間つぶしのお茶代もない。
とぼとぼと塾の建物に向かう途中、私は彼を見つけた。
実際には彼だという確証はなかった。彼はその指の他はこれといって印象のない青年だった。
というか私がそこしか覚えていなかったのかも知れない。
雰囲気で何となく彼と決め、違ったら謝ればいいだけの事とその人影の前に飛び出した。
「あのっ」
彼は驚き、それから「ああ」と顔を崩した。「先週の ……だったよね」
「はいっ。数学の」
私は建物にかかっている塾名の看板を見上げ、肩から下げた鞄を見、彼を見つめた。
懇願を込めて彼を見つめた。
彼はそれで理解した。
だが彼は首を振った。
「君のご両親に申し訳ないもの。それは駄目だよ。ちゃんと講義を受けて来なさい」
「でも」
「君自身決めた事だろう。本当に嫌なら最初に断固と拒絶できた筈だ。
通う事にして受講料を支払ってしまった以上 君の責任だよ。行って来なさい」
「でも」
彼はシャツからペンを出した。
ズボンのポケットに手を入れて、また別のポケットを探った。
私は鞄からノートを出すと、最後のページを開いて差し出した。
彼はそこに数字を書き付けた。携帯電話の番号だ。
「時間の都合がつけば また教えてあげるから」
私は両手でそのノートを受け取った。
「頑張っておいで」 彼はうっかりとペンまで私に返した。
私もうっかりとそれを鞄に入れた。
そして教室目指して駆け出した。
彼の顔はもう完璧に覚えた。どうしてうろ覚えだったのか分からない。私好みの顔立ちだった。
目がいい。爪に劣らぬくらいきれいだ。
その彼の携帯番号がノートにある。つまらない数学のノートが宝物になった。
これがあれば灰色の受験生活だってバラ色に変えられる。





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by officialstar | 2012-06-27 14:12 | DOLL
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