烏鷺

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真理子 3



庭には私の記憶にない、乏しい知識にもない植物が増えていた。
配達を請け負ってくれたあの店員がいろいろ相談にのってくれるのだと彼は言った。
もとより私の協力など必要ではなかったのではないか。彼には。
彼には誰だって手を貸してくれるだろう。
「さあ それよりも今日は勉強だろう」
鍋を台所に置くと、彼は和室に座卓を出した。
角を挟んで向かい合いに座り、私はノートを広げた。
彼の説明は学校の先生より分かりやすかった。
一対一のせいもあるだろうが、
頭の中でもつれていた糸が両端から引っ張られて一本になった。
「すごいね」
「全然」 彼はまた柔らかく否定する。「そろそろ夕食にしようね」
問題を二問ほど作って彼は台所に消えた。
私はそれを解き、彼を手伝いに行こうかどうしようか考えていた。
弟が椅子に座って私を見ていた。
「いつもは愉しくない勉強だけど」 私は話し掛けた。「今日は愉しい。分かると面白いよね」
人形の瞳は動かない。瞼も閉じない。
でも私は私の声が届いていると感じていた。この人形はいろんなものを吸い込んでいく。
「あなたはいいね。おにいさんに一杯教えて貰える。きっとすぐに満点がとれる」
「では今度のテスト 期待していいかな」
お盆を持って彼が戻って来た。
ひゃ…と私は小さく叫んだ。突然だった。
私に片付けるように言って、彼はサラダやコップを並べた。
「ご飯は自分で?」
私は頷いて台所に入った。用意されていた皿に、いつもより少なめの量を盛りつけた。
皿は二枚だった。
どこかで弟の分も用意されるのではないかと思っていた私は安堵と落胆を同じくらいに感じた。
母のカレーは美味しい。持ち込むことを思いついたのもそのせいだ。
彼のサラダはきれいだった。
二種類のパブリカの彩りに彼の拘りを見る。母は決してそんな手間はかけない。
「おいしいね。お母さんにお礼言っておいてね」
「このサラダを見せてあげたいわ」
そんな会話で食事は終った。
勉強は順調に片付いた。
一週間も、或いはこの半年苦しんだのは何だったのだろう。
彼曰くその試行錯誤があるからの成果らしい。
時計を見ると10時近かった。
「さあ 送っていこう」 彼は言った。
私は教科書を鞄にしまった。
彼について玄関まで出たが、真っ暗な家の中を想像して足を止めた。
ひとりでその暗闇に帰って行かなければならない事に躊躇を覚えた。
つまり怖かった。
「泊まりたい」
彼は私を振り返り、その表情に全てを読んだのだろう。いきなりの拒絶は見せなかった。
「でも余分の寝具はないんだ」
「弟さんはどこで寝るの? 椅子?」
「ベッドに移す。以前は一緒に寝ていたけど そうするには僕も弟も成長し過ぎたから」
「そこで駄目?」 
「彼は」
「だから一緒に。私 寝相はいいの。掛け布団をベッドから落とした事一度もないの。
髪をカーラーで巻いて寝た時もひとつだって外さなかった」
彼の受けたであろう衝撃と困惑まで考慮している余裕はなかった。
何としても帰りたくない。帰らずに済む方法を見つけたのだ。手放したくない。
私は彼の反撃を避けて喋り続けた。彼は掌で私を押し止めた。
苦しそうな声で「待って」と訴えた。さすがに私は黙った。
前髪をかき上げ、床を見つめた。
私は彼の額に見惚れた。私の視線を意識していない顔に見惚れた。
家に帰らないための発案が、いつしかそれ自体への願望に変わった。
この家で一夜を過ごす。それは大層素敵な事に思えた。

そして私は彼らの世界を共有する。

「君は……いいの」
「え?」
「僕には弟を一晩椅子に置いておくなんて出来ない。彼と一緒でいいの」
「寝相はいいの。本当よ?」
「でも 君はパジャマを取りに行かなきゃ」
「このままで寝れる。あ Tシャツだけ貸して。お風呂は明日の朝でいいわ。早くに起きれば」
それで全部潰した。後は彼がそれを許すだけだ。
「僕は いいんだ。構わない」 彼は言った。「真理ちゃんが本当にいいのなら」
意外ではあった。
「弟も 嫌がらないと思う。でも 本当に いいんだね?」
何の不都合があるのか私には分からなかった。
彼が、或いは彼らがそれを厭う事はあっても(当然その気持ちはあると思っていた)、
その彼らがそれを容認するならば何の問題があるだろう。
私は彼に飛びつきたい程だった。
だがそれは彼を困らせるだろうという事は分かった。
私は弟の傍に駆け戻ると、一息に報告した。
その間に彼は私に貸すシャツと、弟に着せるパジャマを用意した。
着替えを済ませた弟の身体を壁際に寄せて横たえ、
彼は私に「すぐに眠るんだよ。夜更かしは駄目だよ」と言った。
「僕は隣の部屋にいる。夜中のトイレが怖かったら起こしてもいい」
興奮気味だった私は声を立てて笑った。彼が真面目なのが可笑しかった。
私は人形の横に潜り込んだ。
そして自分が思っていたよりも早くに寝ついた。

それだけの事だったのだ。
私はその一件が騒ぎを引き起こすなど思いもしなかった。
自宅の電話が通じなかった事から私の外泊は両親に知られた。
隠すつもりはなかったが、
追究する父親の剣幕に私は戸惑って上擦った応答しか出来なかった。
「あんたは女の子で」 母親が脇から言った。「相手は高校生の男の子だという事なのよ」
私はそこで漸く事の重大さに気づいた。そしてひとりで寝たのだと言った。
それは事実だったかも知れない。
だが私の事実ではなかった。
「ベッドを借りて 彼は別の部屋の自分のベッド……か布団で寝たのよ。私はひとりだった」
胸が痛かった。
親に対してではない。彼と弟と私自身に。

暫くして彼は越していった。
そのせいではないと彼は言った。
進学先を検討した結果、ここからは通えない学校に希望の学部を見つけたのだと説明した。
「それに弟をひとりにする時間も長くなるから マンションでないとね」
来た時と同じように彼は知らない間に去っていった。


遅い初潮を私が迎えたのは次の週だった。




真理子 完
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by officialstar | 2012-06-22 11:19 | DOLL
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小説


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