烏鷺

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無題 act12

里香は柳原の名前を呼んだ。
いつも呼んでいた名字の方ではない。下の名前。
唇に新鮮なその響きを、何度も繰り返した。
シーツを掴み、胸に抱き、今ほど傍に居て欲しいと思ったことはないと、
切実に祈りを込めて柳原の名を唱える。
だが彼はもう里香を守ってはくれない。
声は受け取り手を求めて彷徨い、宙に消える。

ピアノの音を聞く。違う。里香はすぐに気づく。
雨の音だった。
里香はベッドから下りて窓を開けた。
雨の降り出しに乾いた街が立てるあの匂いが入ってきた。
じきにそれは雨の匂いとなり、その湿度を里香は吸い込んだ。
細胞が貪欲に水分を吸収していく。
血を洗い、ひりついた傷をわずかにながら癒す。
柳原に貰った傘を思い出した。ベッドに戻り足元に置かれたままのそれを取り上げた。
雨雲の下で、その青は憧れを誘う色なのかも知れない。
重い空がもたらす憂鬱を少しは晴らしてくれるだろう。
高みを仰ぐような、濃い青。
カバーを脱がしベルトを外した。さらりと流れる生地。
里香は手を入れて金具を探り、開いた。
その途端。
零れ落ちる色。無地と信じたその傘の、その華やぎを、刹那里香は認識できないでいた。
見上げた目に青い花々が映った。
青い表地の裏側一面が、花で埋め尽くされていた。
里香は吸った息を吐けない。胸に詰まるものを吐き出せない。
幸福であるはずのその色の洪水が里香を窒息させる。里香は傘を支えていられない。
力なく落とした両手の間で花々は揺れている。
開いた傘の内側にだけ広がる花園。里香だけが見る夢の花。
里香はベッドに崩れるように落ちた。傘は手を離れ床に弧を描く。
柳原に送ったメールの文面が頭の中を駆け巡る。

傘をありがとう。青い 傘を。

自分がどれほどに柳原を傷つけたか、傷つけてきたか、思い知る。
取り戻せると、愛情のかけらもないまま信じた自分の愚かさと傲慢を知る。
壁を作って決して踏み込ませない。
あの傘は、それでもそれを皮肉とつきつけたものではないだろう。
花の色の優しさ、柳原の言葉通りの軽量さ、なめらかな差し心地。
梅雨を控えて恋人の日々を少しでも彩りたいと願う気持ち。
柳原は吟味し、開いた時の里香の叫び声を想像してそれに決めたに違いない。
陰鬱な雨の日にも里香が花に囲まれていられるように。
突然の降雨に里香が濡れなくて済むように。


里香は両手で顔を覆い、ずっと座っていた。
室内には闇が忍び込んできていた。
熱はすっかりひいたようだった。
だが柳原と杉崎の残像に交互に責め苛まれ、里香は消耗していた。
杉崎に抉じ開けられた傷口の癒しを柳原に求める事は出来ない。
血を流しながら里香は自分で探さなければならない。
男たちに悪意が不在である事が余計に里香の心を蝕む。
みちるも彼女を助けてはくれないだろう。
誰にも彼女を助ける事など出来ない。
里香は螺旋の中にいた。杉崎が去り柳原が去り、杉崎が現れ柳原が語る。
それぞれの言葉は摩耗して意味を失う。
疲弊が無心を呼び、冴えた一点を自分の中に感じた。
その光を目指して錘のついたロープを降ろしていく。
わずかに揺れながら少しずつ静かに、それは里香の中央を通る。
光を見つめるほどに闇は濃く深くなっていく。
だがその深さは霧の濃度に似て里香を落ち着かせる。
抱かれて束の間安らぎを得た。
微風が髪を撫でた。
気配を感じた。里香は肩を強張らせ、掌の結界を緩めた。
隣には誰もいない。
手と顔の間に新しい空気が入り、呼吸が少し楽になる。
隣には誰もいない。
安堵の後に里香は急激に孤独を感じた。世界でひとりきりになる。
姉は来ない。姉はもう来ない。背後に壁もない。
耐え切れず手を下に降ろし、シャツの裾を掴んだ。
姉がいた。
里香の正面に姉が立っていた。
髪を巻き美しく化粧をした、夏色のワンピースの姉が。
里香は懸命に目を凝らす。そうしないと逸らしてしまいそうだった。
姉もこちらを見つめてくる。黒い瞳に里香を閉じ込める。
あでやかな姉。それがみちるの選んだ服で着飾った自分と里香は気づかない。
その髪もワンピースも全部里香のものだったのに。
姉が一歩里香の方に踏み出した。里香はみじろぎするが、逃げない。
更に近づいてきた。里香は瞬きもせず、それを見つめる。
彼女を正面に見るのはこれが初めて。
里香はこれまで誰をも正面に見ようとしてこなかった。
自分に向かってくる影を真正面に迎える事は逃げ出したくなるほど恐ろしかった。
満身の力を込めて、目を背けぬよう、耳をふさがぬよう、顔を伏せないよう自分を制する。
一杯に見開いた目の表面が乾き、痛みを訴えた。
涙が眼球を覆う。
ぼやけた視界の中で姉の髪はほどけていく。化粧は肌に溶け、素顔へと変わっていった。
ワンピースの色は周囲に散じて香りとなり、
真っ白な姿になって里香に歩み寄る。
それは紛れもなく、今の自分だった。
無意識に里香は掌を向ける。姉の歩みは止まらない。
里香の手を通り抜け、そして里香を通り抜け、その背後へと去る。

伸ばした両手で里香は自分の身体を抱いた。
瞬きが、眼球の潤いを頬に押し出した。
一粒落ちたそれは呼び水となり、涙が溢れた。
里香は泣く。最初は声もなく。
だがじきに嗚咽となり、やがて子供のように大声で泣き出した。
構わない。自分はひとりだ。ひとりきりなのだ。
隣にはもう誰もいない。


里香はひとり、泣き続けた。







完     






リクエスト下さったちやこ様に感謝を
そして読んでくれたすべての人に
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by officialstar | 2012-06-18 15:25 | 無題
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小説


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