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烏鷺

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無題 act11



水分も摂れなくなったら救急車を呼ぶつもりだったとみちるは言った。
微熱はあったが、意識はしっかりしていた。
みちるに支えて貰ってベッドから降りた。
水平から剥がされて体はふらついた。足元を見ながら洗面所に向かう。
最後の体力を使い切ったらしい、ひどい顔をしていた。
里香が洗面所のドアを開けると、みちるがキッチンから駆け寄った。
それを断ってひとりで歩く。自分の歩く姿を想像して笑った。
笑いながら顔を上げる。
目に飛び込んだのは、白い床に散る血の痕だった。
声ならぬ悲鳴を上げて立ち竦む。
背後から見守っていたみちるが手を伸ばした。
よろめいた里香の身体がみちるの肩にぶつかった。
倒れはしなかったが、膝が震え出すのを止める事も出来なかった。
「里香?」 
みちるの声と掌が里香を現実に引き寄せた。
里香は呼吸を取り戻し、瞬きの仕方を思い出した。正しい認識がなされる。
血ではない。
白いのは床に散らばった紙。
赤いのは何枚かを束ねたクリップの色。
「何…… あれ あれは」
みちるは里香をベッドに座らせる事を優先した。
その手に抗って里香は白い海の方へ行こうとする。
「あれは あれよ 里香の書いたメモ」
「メモ?」
抵抗をやめ動きを止めた里香から注意深く手を離し、メモ用紙の床に歩み寄る。
クリップのひとつを指で摘んだ。
「触るなって言われてるんだよね」
「誰に」
「あの子。杉崎?」
「杉崎くんが何。どうして」 
みちるはクリップに挟まれたメモの束を差し出すが、里香は返事を待つ。「杉崎くんが?」
早く受け取れとみちるはそれを振った。
里香は細い線の文字を読む。自分の筆跡だ。目は単独で文字を拾い単語に出来ない。
だが間違いなく自分の字だった。
紙の散らばる床に目をやった。中央に蓋を開放された段ボールがあった。
これは。そうだ。これはレポートのために書き散らしたメモだ。
封印して箪笥の陰に押し込んであった。
「どうして」 里香は呻く。
みちるは携帯を開き、だが通話はせず時計表示を見た。
「もうじき本人来るから」
「杉崎くん?」
「本人から聞きなさい」
両手で里香の肩をつかんで自分に意識を向けさせる。
その集中を途切れさせないように発音を明瞭に、言った。
何度かけても里香の携帯が繋がらず、杉崎に様子を見て来てほしいと頼んだ。
駅で待ち合わせて鍵を渡し、バイトに行った。
余計な事だったかも知れないが、結果それで脱水に至らなかったのだ。
言い訳でなく客観的にみちるはそう告げた。
「だからといって 勝手に」 里香は段ボールを見る。
「許可は貰ったと言っていた」
里香の震えは治まらず、みちるは布団に寝かせようとしたが里香は拒んだ。
上着を肩に掛け、両手でその肩を覆う。
「そもそもが どうして杉崎くんに頼んだりなんか」 里香はうつろに言う。
それからみちるを見据えて訊いた。「……最初からそうでしたね みちるさん」
「うん」 
追及しようとして、しなかった。答えはその時も今も同じだ。
みちるは言う。「あの子のパンを食べただろう」
「おなかが空いていたんです」
「うん」 みちるは里香の肩を擦る。腕を撫で下ろす。
杉崎が来るまでそうしていた。
彼は慣れた様子でドアを開けて入って来た。
「どう。もういいの? 起きてて?」
「段ボールの事 訊いたって言ったよな?」
「言った」 パンの袋を芝居めいたしぐさで置く。「いいって言った」
「私?」
「あ 頷いたんだったかな」
窓を開けようとして段ボールに気づいたのだと杉崎は言った。
白で統一された、無駄なもののない室内でその段ボールは異質だった。
無性に中身が気になった。開けていいかと訊いたら、里香は頷いた。
「底まで紙で。一枚だけ読んで片付けようと思ったんだけど 面白くてさ」
「嘘」
「ごちゃごちゃに入ってたから そういうの我慢できなくて 俺理系だから」
「いやいやー」 みちるが言い掛けて慌てて口を噤んだ。
「あれ 本の感想 みたいなもんだよね。前に言ってた課題のやつだよね。
本ごとに整理したらいいのにって分け始めたら 夢中になってさ。
どうせなら全部やりたいじゃない? クリップも ほら」
鞄を開けて袋を出した。「買い足したんだぜ」
里香は杉崎の手から袋を取り上げて、杉崎に投げつけた。色とりどりのクリップが散った。
大きめだった赤いクリップとは違う、小ぶりのダブルクリップ。
「帰って!」
「里香」 みちるが叫ぶ。杉崎は口を開けただけで声を出せない。
「帰って。呼ばないって言ったじゃない。帰って! 二度と来ないで」
テーブルに置かれたパンの袋に手を伸ばす。
みちるがその腕を掴み、反動で中からパンが零れ落ちた。
里香はそのひとつを取って杉崎にぶつける。
一瞬避けようとした杉崎は慌てて両手でそれを受けた。
「おま…… パンだぞ! 待て 待てって。俺 何かした?」
「帰って! 出て行って! 二度と! こんなもの!」 両手でパンを掴む。
みちるは里香と杉崎の間に身体を入れた。
里香を押さえ、肩越しに杉崎に帰るよう言った。
「ごめん。また連絡する」
杉崎は鞄を抱えた。ドアまで行って振り返る。
「俺 来るぞ。来るからな! 途中でやめられるか!」
「来るな!」
ドアの閉まる音を聞くまで、みちるは里香を押さえ込んでいた。
靴の音が遠ざかっても、力を緩めこそすれ、里香を離さなかった。
パンを握りしめた里香の手がシーツに落ちるのを見て、力を抜き、
逆に里香に凭れ掛かった形になった。
そして突然笑い出す。
「里香の怒鳴り声」 苦しそうに笑う。「初めて聞いた」
笑うみちるが憎らしかった。里香は腕を振って束縛を解いた。
どうして笑えるのか分からない。
里香はベッドにあったメモを取り上げ怒りに任せてクリップを抜き取ろうとした。
みちるがそれを止める。真顔に戻っていた。「駄目だ」
「どうして。勝手にこんな」
「待て」 里香の指の間から用紙を抜き取り、クリップを止め直す。
「私のものだわ」
「大事なのか」
「違います。ただのゴミです」
「ゴミなら捨てるだろ」
「捨てます」 里香はベッドから出ようとした。
みちるはその手を掴んで引き戻す。
「捨てるのはいつでも出来る。いつでも出来るのに 捨ててないし」
山の傍に屈み込むと束になっている分を集めた。
クリップで留められたものはそれ程もなかった。
手持ちに幾つもあるわけもない。
最初に見た時は血だらけに見えたが、たかだか5個のクリップだった。
「確かめてご覧。言ってただろう? 本ごとに整理する」
みちるは一枚目を注意深く読んだ。そして二枚目を捲る。
「さっぱりだが どうだ」 里香に差し出す。
里香は受け取らない。
「タイトルも日付もない」 みちるは言った。
「入れてないもの」
「じゃ」 扇ぐようにそれを振る。「どうやって?」
リストの百冊全部は読んでいない。長期休暇など提出のない期間もあった。
それでも50はゆうに越える。
テキストのリストもない。用紙やペンは何度か変えたが、10にも満たない。
メモの文章にしか手がかりはなかった。
それを杉崎はとりあえず3枚から5枚ほどの束を5つまとめたのだ。
手ごたえを覚えたのか、最後までやると言い切った。
里香の感情の波が静まるのを待って、みちるは帰って行った。
暫く伏せていたが、起き上がり、パンをテーブルに並べた。
並べるだけ並べて、ペット飲料を飲んだ。
それからメモを見る。
一枚目を読む。最初は何か分からない。読み返して本のタイトルを思い出した。
途端にその時の心情が流れ込んできた。
二枚目を読む。時間を越えて当時の自分とシンクロする。三枚目。
それ以上続ける勇気は里香にはなかった。
ベッドにメモを投げる。クリップが跳ねる。
血だ。里香は両脚を抱え膝に顔を埋めた。赤い血だ。
杉崎は無邪気に里香を切り刻もうとしている。





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by officialstar | 2012-06-18 11:11 | 無題