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烏鷺

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無題 act10



里香に何も言わせず、パン屋の袋を顔の前に突き出した。
「メロンパン」
呆気にとられ、そして笑い出す。しかし長くは笑っていられない。
酸欠のようにめまいをおこし、戸口に凭れかかった。
「ごめん」 杉崎はその腕を支えた。
両手で里香の腕を掴み、背後から押して室内に入れる。ベッドまで連れて行って座らせた。
「ごめん。いろいろ」
「私 髪を洗ってないの」
「うん?」
「だからあまり人に会いたくない」
「俺 一週間くらい平気だよ?」
杉崎が持ち上げた布団に脚を潜らせて横になる。
「お詫びにメロンパン潰しておいてあげるからね」
杉崎は真剣な顔でパンの袋を両手に挟んだ。里香と目が合った。
「柳原さんと話した。高谷と似てる」
「嘘」
「顔じゃない」
「いつ。何を」
「昨日 追いかけて。いや 誤解されたくないだろうって思ったから」
「柳原さんは何て」
テーブルにパンを置き、手で押し潰す。
「分かった いや? 分かってる って。
怒っているのは自分の狭量にだって。彼 怒ってた?」
「怒ったところ見たことないから分からない。でも そうね」
「彼氏がいるなんて聞いてない」
「あやは高谷さんが好きだから」
ちぇと言ってパンを袋ごと里香に渡した。
里香は指で硬さを見て杉崎に押し返す。杉崎はこぶしで叩いた。
「こんなところ見られたら 申し開き出来ないわ」 本気じゃなく言った。
「来てもいいと言われるまで来ないって」
「どうして」
「さあ? 俺と違うからだろう」
杉崎が差し出したそれを、里香は今度は受け取った。
袋の上に出して指先で小さく割った。懐かしい味がした。
「今日の二限は休めないな」 時計を見ながら杉崎が呟く。
里香はベッドから降りた。熱もなく足はしっかりと床に立った。
玄関で杉崎は「また来る」と言った。
「呼ばないわよ」 里香は言って鍵を掛けた。

メールも来なかった。
夕方みちるが来た。大学で柳原と話したと言った。
「体調の報告だけして欲しいって。今日はどう? 何か食べた?」
「杉崎くんがメロンパンを買ってきてくれました」
野菜ジュースも飲んだ。気休めにはなる。
みちるが牛乳を温めてくれた。
「週末大人しくしていれば月曜日から行けると思います」
「そう言っておく。他には? 他に何か伝える事は」
里香は少し間を置いた。
「何も」
みちるの視線を額に感じる。里香は顔を上げて挑むようにみちるを見た。
誰への思いなのか分からない。みちるは苛立ちと切なさを目に浮かべる。
「おにぎりを買って来た。無理しなくていいけど 米粒の方が力が出そうだから」
「そうですね。甘いのはもういいです」
里香に着替えさせると洗濯物を袋に入れ、みちるは帰った。
その夜、柳原からメールが来た。「今話せますか?」
里香は自分から電話を掛けた。
少し乾いた声で柳原は出た。僅かに空いた間で喉を湿らせ「どう?」と訊き直す。
里香は「悪くはない」と応えた。そして前日の礼と詫びを言った。
「誕生日なんてすっかり忘れていたわ。傘 本当にありがとう」
柳原は何かを待つように返事を遅らせた。
里香にはもう言う事は残っていなかった。
「会って話そうと思ったんだ。会って話すべきだと思う。だが」
「柳原さん?」
背中を風が通る。よくない展開だと里香にも分かる。
はぐらかすべきだと思い、遮るべきだと思い、しかし何も言えないでいる。
「顔を見てしまったら言えないから」
「誤解 はないのですか」
「これを誤解だと言うのなら 僕がずっと感じていた不安は何なのだろう。
僕は君が好きだから 信じたいものだけを見てきた。
僕は今でも君が好きだから 本当は別れたくなんかない」
「みちるさんに何か?」
「みちる? ああ 体調の確認はしたよ。今だって決してよくない事は分かってる。
だから本当は待つべきなんだろう。
でも回復して 次に会ったなら 僕はただ抱き締めてしまうだろう」
「それで 今 なんですね」
「里香」
「悪いのは私 なんですね」
「違う 君は」
里香は耳から電話を離した。そのまま電源を切る。
別れたくないのなら何故? 誤解していないと言うのならどうして今?
抱き締めたいと思うなら存分にそうしてくれたらいい。
私はやり直す決心をしたのに。
里香はベッドを出て浴室に入った。
髪を洗う。
濡れた髪をタオルで包み、ドライヤーを持ってベッドに戻った。
柳原の言葉を咀嚼せず繰り返す。一語一句変えないように繰り返す。
彼に不安を感じさせていたのは分かる。
扉の隙間にあてがわれた指に里香は侵入を許さなかった。
柳原は抉じ開けるような真似はしない。
諦めて扉を優しく叩くだけ。擦るように。それは愛撫の域を出ない。
全てが心地よかった。全てが穏やかで全てが端正で。
何もかも許される。筈だった。
誤解ではないと彼は言う。杉崎の訪問を知った自分の反応に腹を立てたと言った。
好意が失われたわけではない。それがいつどこで別れ話になってしまったのだろう。
タオルで髪を叩いているうちに気分が悪くなる。
里香は横になり、枕に頭を置いた。

濡れた髪のまま眠ったのはよくなかった。洗髪自体無理があったのかも知れない。
熱があがり、シーツが泥になって里香を包む。朦朧とまどろみ続ける。
週末みちるはバイトで忙しい。
自分はひとりでこれを切り抜けなければならない。
前日まで動くことが出来たのだし、水分は補給しているのだから死ぬような事はないと
里香はそれほど悪くもない気分で思った。
熱が上がりきったのか、奇妙な高揚感が里香の精神を現実から切り離す。
重い身体は他人のもののようだった。
柳原との別れ話も、夢うつつの中で物語の一節になる。
切なく哀しいけれど仕方のない事なのだ。
旅行にも行かなくていい。断る口実も探さなくていい。
修羅も愁嘆も知らず思い出は汚されない。
何か物音を聞いたような気がした。
次に浮上した時に飲んだペットボトルは冷たかった。
思わず喉を鳴らした。そしてまた枕に沈む。全部夢ならいい。
みちるとの会話も柳原を愛せなかった事も別れ話も。
額に冷たい感触を覚えた。みちるが来たのだ。
目蓋に掛かるタオルを押し上げてまで目を開ける気力もない。
ありがとうと溜息のように言って、差し出されたストローを咥えた。
暫くしてタオルが交換される。何か声を掛けられたが、聞こえなかった。
何となく頭を頷かせた。気持ちいい? うん。そんな会話を勝手に描いた。
ピアノを弾く少女に話しかけた。
レッスンバッグを持って少女は走り去る。
五線の描かれた道路に音符が散る。やがて星になって天に上がる。
きらめきは金属音。トライアングルがちりちりと鳴り続ける。
うるさい。手で星を払い落とした。
楽譜の捲られる音がする。
教師が横に立って少女に何かを言う。
里香は少女になってそれに答える。開いた口にストローが当てられた。
冷たい。「おいしい」
よかったとピアノ教師が言った。





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by officialstar | 2012-06-18 10:15 | 無題