烏鷺

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無題 act9

みちるに続いて柳原が姿を現した。
里香は口の中で叫んだ。
みちるはごく自然に「どう?」と訊く。
杉崎は立ち上がり、椅子を誰かに譲るように僅かに向きを変え、「寝てました」と言った。
みちるが柳原を振り返る。里香は柳原を見上げ、手元に視線を落とす。
「これを渡したかっただけだから」 柳原は筒状の包みを里香に差し出す。
里香を見つめながら、同時に杉崎にも言っていた。
受け取ったそれを里香は持て余し気味に眺めた。
「誕生日だよ 忘れてた?」
「え?」
改めて両手を見る。
「開けて」
「でも」
「開けて」 柳原は繰り返した。里香はみちるを覗う。みちるは頷いて促した。
その背後から杉崎が見守っている。
里香は包みを開いた。紙の音が室内に響く。
傘、だった。
折りたたみの、青い、傘。
夏の、濃い空の色。雲と対比してますます青く映える空の色。
木製の柄に陶器でラインが入れられていた。
カバーの縁取りは読み取れないがブランド名のようだった。
「私」 里香は柳原を見上げる。
柳原は上から言った。
「君が生まれてきた事に感謝する僕の気持ちだ。
いつも長い傘を持て余してただろう? これはとても軽い。
人生晴れの日ばかりではないけれど ね 誕生日おめでとう」
柳原の声は里香を包む。
その肩を見、腕を見、手首を見た。細く長い指を見た。
薄い腰の線も長い脚も主張のない関節も、全部が好きなのに。
「俺 帰ります」 杉崎は一歩で自分の荷物まで飛び、それを肩に掛けた。
柳原が、自分にその権利があるという口振りで杉崎を止めた。
「僕が帰る」
里香を見て声を優しく落とす。「渡したかっただけなんだ」
追い詰められて里香は口を開いた。言わなくてはならない。ありがとうと。
だが口から出たのは、ごめんなさいだった。
柳原は指先で里香に触れて部屋を出て行った。里香の手の中に傘が残った。
ドアとベッドの間で行き惑う杉崎に、みちるがパンの袋を振った。
「持って帰るんでしょう。里香はこんなに食べないよ」
杉崎は鞄を置いて袋を広げた。暫く覗いた後、里香に差し出した。
「食べられそうなの どれ」
今は何も喉を通りそうになかったが、甘そうなパンをひとつ選んだ。
杉崎は「いいかも知れない」と言った。「元気になる」
パンの袋を鞄に押し込み、玄関に向かう。

怒ってる?とみちるは訊いた。
「これが血を流すという事なのですか」
「違う」 みちるはすげなく言う。
みちるを問い詰めたいと里香は思った。問い詰めるべきだった。
或いはみちるもそれを待っている。
だが彼女が答えを持っていると分かって、問うのは虚しかった。
最初から認めている敗北を再確認するための行為に過ぎない。
全て理解したふりをしてみちるを許す事だけが、里香に出来る抗議だった。
「飲み物とか いろいろ お金を払わないといけません」
「見舞いでいいよ。誕生祝いでも。たいした額じゃない。絵を借りる礼?」
「悪い絵じゃありません」
ベッドの傍に寄って里香の頭に手を乗せた。
「人は絵の中に入れないよ。パン 旨かっただろう?」
「味なんて分かりません」
「そのパンが」と選んだ甘いパンを指差す。「食べられたら 次は野菜スープな」
里香は拗ねた子供の気分になる。
それは決して不快なだけの感情ではなかったが、認めたくない思いでもあった。
食べかけのロールパンを手に取り、齧った。
里香はそれきりパンを食べなかったが、みちるは夕食用にスープを作った。
温かいスープに汗が出た。着替えをして横になった。
みちるはパンとペットボトルをテーブルに置いて、帰って行った。


携帯を開き、画面を見つめる。
メールではいけない。分かっている。会って話すのが誠意だろう。
しかしそれは憂鬱な事だった。
ベッドに座り脚を抱え、手にした携帯を軽く振る。
動作を繰り返すうち、
その手がポンプの柄となって里香の奥から怒りを汲み上げた。
愛せない事が罪なのか。
一緒に過ごす事にそんな大層な理由が必要なのか。
潜るシーツが心地いい。見上げる天井の色がいい。
それだけで充分ではないか。彼だってその時間を愉しんでいる。
指の間を携帯がすり抜けた。ベッドに置いたままの傘に当たった。
里香はシーツを引いて、それらを手繰り寄せた。
傘だ。
確かにこの色は自分の好みではない。
きれいだとは思うが、柳原が自分に見ている色とも思えない。
どうしてこの色を選んだのか分からない。
でもどうだっていい。傘としての役割は果たしてくれる。
雨から私を守ってくれる。そう。
守られる事の何がいけない。雨が降れば誰だって濡れる前に傘をさす。
彼が私を守りたいと言うのなら、その広げたコートの下に入る。
それのどこがいけない?
みちるは柳原が好きだからあんな事を言うのだ。
私に彼が駄目なんじゃない。柳原に私がいる事が許せないんだ。
里香は傘をシーツに放る。
その傘を長い間眺めていた。

携帯を取り上げキーを打つ。傘 ありがとう。きれいな青ね。

そしてまた吐き気に襲われた。


お大事に。
夜半過ぎの返信を、里香は朝、確認した。
その文字はどこかよそよそしかった。里香は寝転んだままそれを見上げた。
杉崎の事が誤解されたのだろうか。
ずっと返信しなかった事を怒っているのかも知れない。
里香は作成画面を開いて親指を彷徨わせた。だが何も浮かばなかった。
良くなったら説明しよう。今は考えたくない。時間はあるのだ。これから取り戻せる。
柳原を失う事はやはり出来ない。まだやり直せる。いくらでも。
愛せないことの罪悪感は自分を優しくするだろう。
柳原と旅行に行き、彼が望むのならこの部屋に泊めてもあげよう。
そして愛する努力もしよう。
杉崎の置いていったパンを齧る。
甘みが口蓋に広がった。「元気になる」と言った杉崎の言葉と一緒に飲み下す。
二口目を食べ、枕元に用意されたスポーツ飲料を飲んだ。
あまり合わない。
立ち上がってみる。床を踏みしめてキッチンに行った。
冷蔵庫から緑茶のペットボトルを取り出した。テーブルに置いたところでインターホンが鳴る。
みちるか。昨日は鍵を持っていかなかったのだろか?
里香は玄関に行き、ドアを開けた。
杉崎が立っていた。



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by officialstar | 2012-06-18 10:25 | 無題
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