烏鷺

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無題 act8


夜中に何度か目が覚めた。
熟睡に入ったのは明け方であった。だがそれも夢に邪魔される。
醒め際の夢には現実の物音が関与する。
みちると、もうひとりの会話がテニスの打ち合いになっていた。
奇妙なゲームだった。審判がコート内を走り回っている。
その審判が里香だったのか、ひどく疲れて目を開けた。
「熱 あるんじゃない」 みちるでない声が言った。
みちるの掌が里香の額に当てられる。
「上がったなあ。タオルで冷やしておくか」
「あ! じゃ 俺が」
「動き回らないで」
襟首を掴まれた青年が振り返る。
「……杉崎 くん?」
「そう。ほら」と男はみちるの指を払った。「知り合いだろ ちゃんと」
そうなの? とみちるが里香を見る。
確かにそうだが、彼が何故。どうやって。
「休講でさ。暇潰しにワンルームの表札探して歩いた。
やあ まさか見つかるとは思っていなかったんだけどさ。
このあたりテリトリーなんだ。一本裏に旨いパン屋があるんだ 知ってた?」
「インターホンを押すところに行き合わせたんだけど」
「何 調子悪いの。風邪? でもパンくらい食べられるよね。
わざわざ戻って手土産がわりに買って来たんだから。
いや 留守でなくてよかった」
テーブルに袋を置いて中を描き回した。
みちるは傍を離れて浴室からタオルと洗面器を持ち出し、キッチンに入った。
グラスを手に戻り、里香に「起き上がる?」と訊く。
手伝って背中にクッションを押し込み、グラスを持たせた。
杉崎はパンを出して両手に持つ。
里香がグラスの半分ほどを飲むのを見ていた。
そこで初めて具合が相当に悪そうだと気づく。
「いや 俺 もしかして無作法だった?」
里香は手を伸ばして「何パン?」と訊いた。
「クロワッサン こっちはベーコンとオニオン だけど」
「ロールパン ないかな 食パンとか?」
「明日の朝飯用のなら」と袋から出した。
里香はひとつ受け取って端をちぎった。舌に乗せて溶かす。
三口ほど食べたところでみちるがグラスを差し出す。
里香が飲み干したそれを持ってキッチンに行く。
椅子を運んで杉崎を座らせ、グラスをふたつテーブルに置いた。
里香は小さく齧りながらパンを食べた。
半分ほど食べて味が分かってきた。これはパンだ。
みちるに皿を持ってきて貰い、パンを置いた。
「おいしくない?」 杉崎が覗う。
「一度には食べられない」
杉崎はみちるに勧め、自分も一個取った。
彼が食べているのを見ている間に、里香も再びパンを手にした。
みちるが「うん おいしい。どこの店だって?」と訊いた。
杉崎は建物の裏を身振りで示し、店の名前と看板の色を言った。
「すぐ裏。知らないと分かりづらい。大学内では有名だぜ」
「帰りに私も買って行こう」
「メロンパンが人気」
「里香 好きだよな? 変な食べ方するけど」
「変?」
里香は笑って説明する。叩いて叩いて平たくして硬くなるまで叩いて。
話しているうちに喉に引っ掛かる感覚は消えた。
杉崎はロールパンをもうひとつ出して皿に乗せたが、里香は「あとで」と言った。
みちるは里香の額に手を当て、顔を顰めた。
上がっているという自覚は里香にもある。
「寝ていれば治る」 そう言って横になった。
みちるは洗面器に浸したタオルを絞り、里香の額に乗せた。
気持ちいいと里香は呟く。目まで覆ったそれは里香を落ち着かせた。
「ごめんね。もう寝るから」 杉崎に言ったつもりだった。
起きたらまたパンを食べるわ。ありがとう。
みちるはペットボトルを入れ替え、杉崎のグラスを洗った。
タオルを運び、引き出しからTシャツを出して枕元に置いた。
杉崎はベッドの横に置かれた椅子に座っていた。
その気配を感じながら里香は眠りに落ちていく。
室内に誰かがいるのに。不思議に思う。眠れるわけがないのに。

物音で目が覚めた。
杉崎と椅子が床に転がっていた。
「……何」
杉崎自身すぐには状況が分からなかったようである。
ベッドから覗き込む里香の顔を見て不思議そうにする。
それから「ああ」と頷き、身体を起こした。「俺 寝てたわ」
立ち上がり、里香の額に触れようとする。里香は首を振ってそれを避けた。
「どうして」
「みちるさんに頼まれた」
「どうして」
「また吐くといけないし 熱もあがるかも知れないし」
「どうして」
「……怒ってる?」
当たり前だ。里香はその非常識をあげつらおうとしたが、気力もなかった。
上げかけた頭をぐったりと枕に降ろして「帰って」と言った。
「でも そろそろみちるさん来るから」
「帰って!」
「何もしてない 何もしてないって。座ってただけだから」
「帰って」
「みちるさんに叱られちゃうよ」
里香は全体力を使い果たした気がした。
暫く顔を埋めていると、杉崎は許しを得たように椅子に座った。
「怒った?」
怒りは渦巻いている。だが対象がみちるなのか杉崎なのか分からない。
杉崎を部屋に置いたまま眠り込んでいた自分が信じられない。
みちるはどうして彼を残していったりしたのだろう。
親しい仲だと勘違いしたのか。杉崎がさせたのか。
だがみちるは決して垣根が低い方ではない。初対面の男を信頼したのには理由がある。
……ああ。
里香は顔を上げ、皿に置かれたパンを見た。
杉崎がその視線を追い、袋に手を伸ばす。「まだ あるから」
「要らない」
里香は起き上がりベッドから脚を下ろした。杉崎が立ち上がる。
冷ややかに杉崎を見て牽制し里香は洗面所に向かった。
手と顔を洗うついでに髪にブラシを入れた。
床に弾力を感じるのは熱のせいだろう。だが気分は悪くなかった。
ベッドに戻ると、杉崎がグラスに飲み物を用意していた。
「休講は一限目だけだったんでしょう」 里香は言った。
「怒ってない?」
「もう遅いもの」
ベッドに入る前に枕とクッションを整えた。そこに凭れてパンを半分食べる。
ドアがノックされた。みちるだ。
聞こえるかどうかは分からないが「どうぞ」とだけ言って、待った。
しかし、入ってきた影はひとつではなかった。




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by officialstar | 2012-06-16 09:54 | 無題
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