烏鷺

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無題 act7


口に出して里香は自分がその事実をずっと知っていた事に気づいた。
それが今ゆるがせない現実になってしまった。
里香は唇を結んで視線を流した。
携帯に着信記録が鎖のように連なっていく。
「好きになれるとは思ったんだろう?」 立ち直ってみちるは優しく言った。
「みちるさんはどうして あの人を好きになったんですか」
一度見開いた目を、可笑しそうに笑わせた。
「人間は自分にないものを求める」
「たとえば」
「身長。細い腰。長い指。癖のない髪。真面目な顔」
里香はからかわれたような苛立ちと惨めさを感じた。
みちるは口の中で「ごめん」と言う。
「あいつは つまりは医者だろう?」
里香は眼差しで先を促した。みちるは言う。「文化財の」
その修復技術を学んでいると聞いた。
しかし医者というのには無理がある。到底みちるの親の病院は継げない。
「いいんだよ。次のステージの前に少し癒されたかっただけだから」
「それがどうして私には駄目なんですか。柳原さんは優しいです」
「里香を守りたいと言っていたな」
「ではあとは私が好きになればいいだけです」
「駄目だよ」
里香は問う。どうして。
「里香は血を流さないとな」
その声の柔らかさに、血の生温かさを感じた。里香は顔を強張らせた。
みちるはテーブルからグラスを持ち上げ、里香の唇に当てた。
里香は喉を小さく鳴らし、咳き込んだ。
涙を滲ませて里香は「姉が来ます」と言った。
「お姉さん?」
「姉が来たんです。血を流した その日に」
みちるは何も返せない。
彼女に混乱を招いた事を里香は認識する。その混乱は里香に伝染する。
話したい事と知られたくない事を分別しなくてはいけない。
だが濁った思考にそれは難しく、里香は沈黙するより他になかった。
「返信 したら?」 みちるが携帯を指差して言った。
「して下さい」
「私がいるって?」
文面を作って里香に見せる。里香は頷いた。
「パン粥でも作ろうか。それぐらいしか出来ない」
「後でいいです」
みちるは絵の前に立った。それが癖であるのか、腕を組んで絵を見下ろす。
「何の話だった? 絵の中が何だって?」
「線になれば入れますよね」
「点の方が確実だ」 みちるは言って里香を見た。
里香はみちるを見ていなかった。姉の事をどう伝えるか記憶の整理に忙しい。
「この絵」 みちるはキャンパスを両手で持ち上げた。「なくてもいいだろう」
「え?」 里香は我に返る。「え? でもそれは母が」
「模写したい。一応画学生だから 私」
模写するほどの絵でない事はみちるの口ぶりから分かっている。
それが分からない里香でない事もみちるには分かっている筈だった。
「どうぞ」 里香は言った。
「血を流すって 生理? もしかして初潮か」
「ええ」 目を伏せる。「今 思い出しました」
姉が里香の部屋のドアを開けたのは、その日だった。
学校で説明は受けていた。どうすべきかも聞いていた。
母に言い、支度を貰う。処置をして床に蹲った。
ドアが開いて気配が横に座った。里香は怖くてそちらを見る事は出来なかった。
その影と、生まれてこなかった姉と結びついたのは、夜になってからだった。
正体の分からないものに対する恐怖は薄れた。
「お姉さんはもう来ない? 来て欲しくない?」
「だって姉なんて本当はいないんですから」
「私が言っている血を流すというのはそういう事じゃない」
「同じ事です」
「傷口の出来る前に手当てを受けてはいけないと言っているんだよ。
柳原はその危険全てを里香から遠ざけようとするだろう」
「みちるさんはどうして」 里香は訊いた。「私に服を選んだのですか」
「もっと似合うものを着たらいいのにと思ったんだ」
「似合ってましたか」
「センスを疑う?」
「あれは私の服じゃありません。姉にこそ相応しい色です」
「姉さんなんかいないって言ったじゃないか」
みちるの声は里香を責めてはいなかった。だが里香は勢いを失ってしまった。
髪を握り、みちるはベッドの脇に戻る。
「私は医者じゃないんだよ」
「分かってます」
「着たいと思っていた色だよ。それは認めるよ。
それが里香に似合っていたというだけだよ」
「分かって います」 里香は濡れた瞳で窓を見る。
柳原の告白を抵抗なく受け容れたのはみちるのせいだと思う。
癒しを彼になど求めてはいなかった。少なくともその時は。
「……ピアノの音 聞こえませんか」
みちるは数秒耳を澄ました。「いや……?」
「そうですよね 聞こえる筈ありませんよね」
あれは実家の部屋で聞いた音だ。
今、里香の耳はそれを拾っている。
最初からそんな音はなかったのだろう。誰もピアノなど弾いていない。
「弾きたい?」
「いいえ」
「……習いたかった?」
「いいえ」 里香は懸命に自分をその場に引き止める。
姉のワンピース。素人のピアノ演奏。少女の幻影。
里香は両手で耳を塞いだ。それでもピアノの音はやまない。
邪魔だった。掴みかけたものが指先を掠めて逃げていく。
それとも自分はそれを掴みたくないのだろうか。
耳を塞ぐ里香をどう受け取ったのか、みちるは「パン粥を」と言った。
キッチンに向かいかけたみちるを里香は呼び止める。
「何か食べないと」
「今日は 駄目です。いいんです」
「じゃ 明日?」
ああ。そうだ。明日がある。明日ならきっと。
「……鍵を持って行って下さい」
「そうだね」 
枕元にペットボトルを並べ、みちるは部屋を出て行った。
鍵の回る音がピアノの幻影を散らした。
里香は壁を見た。絵は消えていた。
だが空で覚えた構図を里香は壁に描いていた。



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by officialstar | 2012-06-15 09:42 | 無題
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