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烏鷺

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無題 act6

気がついたら朝だった。絵の前の床で眠り込んでいたのだ。
冷蔵庫の牛乳は嫌な匂いを放っていた。
里香は水を飲んで部屋を出た。
学食でサラダを突いていると、誰かが前に立った。みちるだ。
「虫にでもなるの」
「せめて小鳥」
「鳥でも虫ぐらい食べるわ」
手にしたトレイを無造作にテーブルに置く。
「ダイエットが必要なのは私で 里香じゃない」
かき回しただけのサラダを押し遣って里香は「食べたくないの」と言った。
みちるはフォークでチキンを刺すと里香に突き出した。
「これを食べたら許してあげる」
「無理です」
「じゃあサラダを全部食べなさい。残さずきれいに攫えなさい」
里香の上半身が小さく痙攣した。みちるの目には分からない。
硬直した顎をぎこちなく上げて前を見た。
正面に座るみちると目が合った。顔を背けた。みちるの口が開く。
里香は立ち上がり食堂から逃げ出した。
そのままエントランスを横切った。柳原とすれ違った。
里香を呼ぶ声。だが里香は立ち止まらない。


柳原の顔が目の前にあった。
何度かの瞬きで焦点を合わせ里香は「どうして」と呟いた。
倒れたんだと柳原は言った。
「救急車を呼ぶか迷ったけど 俺が運んだ。病院行く?」
「どこも悪くない」
「悪くない顔じゃない」 後悔を浮かべて柳原は言った。
「悪くないの。ええ きっと あれ あまり食べていないから」
「あまり?」
柳原は立ち上がってキッチンに行く。
「何なら食べられる?」
「食べたくない」
「お粥はつまらないな。リゾット風にするかな」
フライパンを出しながら独り言のように言った。
里香はもう何も言わなかった。水気が多ければ喉を通るかも知れない。
スープストックを出し、チーズの日付を確かめ、ごそごそと動き回る。
里香は起き出してソファに座り、その背中を見ている。
無駄のない効率的な動き。全てを計算してから作業に入る。
流れる動作は彼を端正に見せた。細い腰に洗練された美を感じる。
彼の作るものならば食べられるかも知れない。里香は思う。
やがて皿を手に柳原が歩いてきた。
スプーンの先で少量すくい取り、里香の口元に運んだ。
里香は笑って、その手からスプーンを受け取った。
優しい味だった。歯で米のあるかなきかの芯を噛み締める。
「ゆっくりね」 柳原が言った。
皿に入れてきたのはごく少量だった。
5匙ほどのそれを里香が平らげると柳原はお替りを入れた。
里香は両手に皿を持って受ける。湯気が揺れる。
顔の前で一度止め、鼻腔にそれを吸い込んだ。
柳原は里香の横に座った。膝に肘をつき、その手に頬を乗せ里香を見る。
「私はもうこれでお腹一杯だわ。まだあるのなら柳原さんも食べて」
皿の中を掻き回しながら里香は言った。
首を振りかけ、柳原は「そうだな」と立ち上がった。
フライパンに残ったそれを皿に移し、里香の横に戻った。
ふたりで並んで食べた。
おいしいと里香が言うと、なかなかだねと柳原は応えた。
皿を運び、洗う。コンビニで牛乳とパンを買って来ようと柳原は言った。
「プリンもいいな。最近はコンビニも侮れないよね」
里香は時計を見、柳原に言う。「帰らなきゃ」
柳原は切なげに目を細めた。「君が心配だ」
「帰らなきゃ」 里香は繰り返す。
柳原は鞄を持ってドアに向かう。里香はそれを玄関まで見送った。
「明日」 柳原は言う。
「明日ね」 里香は言ってドアを閉めた。そして鍵を掛ける。
踝を返して室内に戻る。
壁の絵が目に入った。
里香は洗面所へと走る。

次の朝、里香は起き上がれなかった。
夜中に何度も吐いた。これは悪い風邪だと思う。
柳原からメールが入る。返信を躊躇しているとみちるからの電話が鳴った。
「倒れたって?」
「風邪じゃないかしら」
「途中で何か買っていく」
「伝染ります」
「伝染らない」
漸くの思いで洗面所に立ち、顔を洗った。鍵を開けておく。肩で息をしていた。
みちるの申し出は有難かったかも知れない。冷蔵庫は空だ。
何も食べたくはないが、冷たい水が飲みたい。
水道水ではきつい。
スポーツ飲料と牛乳と何種かのジュース。食パン。
みちるが並べ、里香は一本を指差した。残りを冷蔵庫に入れてグラスを出す。
里香が飲み干す間にテーブルをベッド脇に寄せた。
グラスを満たしてそこに置く。
「少しずつね。また吐くといけないから」
「吐いたって私 言いました?」
僅かに間があった。
みちるはせわしく動き始めながら「風邪だって?」と言った。
片付けなければならない室内ではなかった。
みちるは自分の鞄の置き場所を二度換え、
前日の里香のバッグを定位置と思わしき場所に入れた。
そして壁の絵を見る。
床に置かれた状態のそれを腕組みをして見ている。
「母が 飾りました。テープ式の止め具だったから弱くて」
「ああ」と持ち上げ重さを量る。「壁紙との相性もあるしね。
どうしても飾らなければならない絵でもないだろうに」
力なく笑った。「それほどうるさくないですよ」
数瞬かけて理解し、「そうかな」と呟いた。
「そんなに悪い絵でもないですよね? ずっと見ていられます」
「ずっと見ているの」
「絵の中に入ったらどんな感じでしょう」
「今より貧しい生活かもよ」
そこは裏通りである。貧民街とまではいかないが、富裕層の住居では決してない。
だがそんな事はどうでもよかった。
「私 溶けなけれといけないと思っていました」
「何に? ……何の話」
「みちるさん お医者になりたかったんですよね」
「なりたかったんじゃない。ならなきゃいけなかったんだ。
でも まあ 女とセンスを磨いて婿養子を見つけるよ。それが?
里香の家はサラリーマンだろう?」
「でも みちるさん 柳原さんが好きなんですよね」
みちるの表情に不快はなかった。
質問を無視され、本音を言い当てられても、
それよりも重要な関心事がそこにあるように里香の顔を見ていた。
「あいつは里香には駄目だよ」
「いい人ですよ」
「知ってる」 みちるは笑う。今里香が指摘したばかりだ。「だから駄目だ」
「私が好きじゃないからですか」
みちるの動きが止まる。
「私が彼を好きじゃない からですか」
眉を顰めた。



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by officialstar | 2012-06-14 10:14 | 無題