烏鷺

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無題 act4



里香は杉崎を思い出せなかった。
私服のせいと綾女は言った。髪型も校則に従ったそれとは違う。
「俺はちゃんと分かるけどな」 杉崎は里香の苗字を口にした。
二年の時に同じクラスで。修学旅行の班も言えるよ?
綾女は口の前に指を立てて「あら いい線」と里香に言った。
柳原の事は伏せておけという事なのだ。
そして熱心に高谷に話しかけた。里香はそっと高谷を覗う。
杉崎どころではない。高谷の容貌も朧ろであった。
一年と半年の間追い続けた人の筈なのに、記憶と重ならない。
見ていたのは広い肩幅とユニフォームの背中だけであったか。
時々伸び過ぎだと感じた襟足と。
好青年である事は改めて認識した。相手を逸らさない真剣で優しい眼差し。
砕け過ぎず、よそよそしくもなく女性の心の一枚上に添う。
私服のせいかずっと大人びて、これは綾女でなくても惹かれるかも知れない。
高校生の時は話した事もなかった。
綾女と高谷を邪魔しないように、里香は杉崎と会話を繋いだ。
それは意外と楽であった。杉崎はひとりでも喋り続けていられる人物だった。
話題は忙しく飛び、高校時代の事から芸能の話、最近街で見た光景。
その話の中で杉崎の学校が里香の下宿から近い事を知る。
「ああ あの店ね 木曜日に花屋さんが来る」
「え どこに住んでるの」
駅から、杉崎の大学とは反対方向の。里香はそこで言い淀んだ。
杉崎は続きを待つほど無作法でもなかった。或いは興味がなかったか。
「大学で何をやってるの」と訊いた。
「え?」
「勉強。三年に上がる時文転したんだよね。文系だよね?」
里香には当たり前になった日常も理系の学生には新鮮なのかも知れない。
退屈な日々を頭の中で拾い集める。たとえば。
「本を読むの。百冊のリストから読んでいくの。週に二冊。レポートを出す。
形式は何でもいい。評論風でも詩でも続編でも」
「へえ?」
里香はメモ用紙で一杯になった段ボールを思った。
思いつくまま書き散らしたそれらは大半はレポートに活かされず、
タイトルも入れず未整理なままである。
本を読んでいる間、頭の中に様々な事が浮かぶ。
風景であったり断片的な言葉であったり。主人公への思いや共鳴。
自分ならこうするだろう、こう描くだろうという気持ちが溢れてくる。
それを手当たり次第に綴るのだが、終った途端に全てが色褪せる。
文字の羅列は意味を失い、拙いスケッチは落書きに変わる。
里香はそれらを段ボールに投げ込み、パソコンに向かって打ち始める。
無機質な無個性な文章。
どうしてだろう。読んでいる間はあんなにも自由なのに。
「……で?」
「え?」
「何か出会えた?」
「え?」
「本だよ。それだけ読んだら何かあるだろう」
里香は懸命に一冊を思い出そうとした。
だが杉崎の視線がうるさくて思考が辿れない。
里香は苛々とどうしてこの人はこんな事を訊くのだろうと思った。
「一冊に出会うのって簡単な事かしら」
罪悪感が湧き上がり、それが彼女を攻撃的にした。
何も見つけられずにいる事を批判されたようで、
前期の成績に並ぶCの文字を見透かされたようで。
「何かを見つけなきゃいけないの?」
「さと」 隣に座った綾女が里香の腕に手を乗せた。
場の空気が緊張した。里香の肌にそれはひりひりと痛い。
綾女の指は火箸のようだった。里香は現実の仕打ちに苛立ちを募らせた。
ある瞬間にはそれは確かに色のある世界だった。
本を閉じた時に時間は切断される。何もかもが過去になる。
一時にせよ心動かされた自分を冴えた自分の目が見る。
その視界で萎んでいく思い。
拾い集めるべき断片は散らかったメモにあるのだが、
熱を失った心にはそれは解けない暗号だ。
自分に、或いは過去の自分に何かを掘り起こそうとするが何もない。
それは自分のせいなのか。自分は懸命にやっている。
これ以上どうしろと? 怒りをぶつけようと顔を上げた。その時。
「あ 俺も不感症」 杉崎は言った。
息を吸い込んだ里香はそこで停止した。
「分かる分かる。急にしらけちゃうんだよな」
綾女の手が離れた。
「そ……」
「だから何? ってね」
里香は息を吐く。
力が抜けた。何かを言って杉崎の厚意に応えなくてはと思う。
しかし倦怠感がひどくて言葉を探せない。
「んー あっちもそうだったらどうしよう」 杉崎は言う。
「こいつ どこ触っても平気なんだ」と高谷が彼を指差した。
里香を除く全員が笑い、そこからプレイボーイの条件の話になった。
一座の盛り上がりからそっと身を引き、椅子に凭れた。
手を額に当て、里香は綾女の横顔を見る。
場に戻った空気を冷ますまいとたてる笑い声の、その一番高いところが、
里香の水のグラスを振動させる。
割れないように里香はそれを手で包んだ。
ひんやりとした感触に気は落ち着いていく。
「驚いた」 綾女が里香に凭れかかって囁いた。
それは一瞬で、彼女はまた場に戻った。
驚いたのは自分だ。
杉崎が笑う目の端で里香を見た。
里香は杉崎の事を思い出した。高校生の杉崎を。教室の中に。


休み明け、実家から戻ると里香はみちるの選んだ服を処分した。
室内に残る淡色を押し込めるために箪笥を買った。
白い家具と白いカーテン。建材のオフホワイトが色を帯びて浮き上がった。
冬学期は試験に振り回される。慌しい中でふたりは会った。
春はまだ浅く、ふたりで潜るシーツの温もりは柔らかだった。
柳原との関係は周囲の知るところとなり、当然みちるの耳にも入る。
みちるは里香に「どうして彼なの」と訊いた。
里香は天井の色が好きなのだと答えた。
じきにコートが重くなる。柳原は黒い上着を買った。
サークルでボランティア旅行を企画した。春休みはそれで終った。
準備と資金のためのバイト。家は戻らなかった。
2年になる。学年が上がっても生活は変わらない。
100冊読破の講義は終わり、段ボールは封印された。



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by officialstar | 2012-06-14 10:13 | 無題
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