烏鷺

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無題 act 1



「ご飯粒をきれいに浚えなさい」 母親は言った。「いちいち後ろを見ない」
女児は首を竦め、言われた作業に専念した。
茶碗をすっかり空にすると箸を揃え、覗うように母親の顔を見る。
頷くのを確認して椅子から降りた。
最後にお茶を飲むのを忘れた。だが母も忘れているのだからいいだろう。
和室の真ん中に用意された布団に潜り込む。


人間の記憶は三歳に始まるというが、里香のそれは恐らくはもう少し上だ。
箸が茶碗に当たる感触や、小鉢に残った胡麻の色を覚えている。
時々思い出すその風景の中で、母親の声だけが変化していく。
つまり、現在に。
母は今でも言う。「ご飯粒を浚えなさい」
さすがに昼寝の強制はないが、里香はそのふりをして自室に篭る。
壁に背中を押し付けて、
意識を保つ事を放棄する行為を睡眠と呼ぶならば、
これもまた午睡というものではあるのだろうと、考える。
壁を布越しに感じているうちに温度差を失って衣類は消える。
肌が溶けていくのを里香は待つ。
ドアが開く。
鮮やかな夏服の姉が入ってきた。
何も言わず里香の隣に座る。スカートを整えて両手を揃えて置く。
「宿題 進んでる?」 時に他愛もない事を姉は訊く。
里香はうるさそうに喉の奥で唸る。
体温の届かない距離、触れる事など決してない位置に姉は座る。
気配で里香は姉を知る。
宿題は、姉ならば計画的に終えるだろう。完璧に。
視界の端の夏服の色は姉のオーラそのものだった。
白地に原色を重ねたその柄は里香には着られない。
その素足に似合うサンダルはきっと来年にはハイヒールになる。
真っ直ぐに伸びた髪を軽く巻いたなら、姉はもっと美しくなるに違いない。
想像した姉の姿は逆光を受けて輪郭だけとなる。
里香は小さく息を吐き、後頭部を壁に預けた。
近い。
姉はもういない。壁に溶けてしまえば何も聞こえない。
里香はこの世界から消えてしまうのだから。
しかし、里香を呼び戻すのはいつも姉だった。
覚醒すると里香は姉とは反対の窓を見る。
姉は立ち上がり、ドアへと消えていく。

里香は自分に姉などいない事を知っていた。最初から知っていた。
だがそれは決して自分で生み出した存在ではない。
里香が気づいた時にそこにいた。里香が望まなくてもそこにいる。


一人暮らしがしたいと里香は伝えた。
大学の資料をテーブルに広げ、西がいいと言った。
どの大学に入りたいというより家を離れる事が大事だった。
里香はもう姉にうんざりしていた。
父は容認し、母は条件を出した。里香は勉強する。
そして春は来た。
里香は準備の殆どを自分でした。経費を切り詰め現金を手元に残した。
電化製品は卒業生から安く入手できると、友人が間に入ってくれた。
箪笥は省こう。ベッドは安いパイプでいい。
カーテンは布をレールから吊り下げた。
自分が何を求めているのかまだ分かっていない事を里香は知っていた。
大学生活は平凡に穏やかに始まった。
新入生の殆どが通る道を里香も逆らわず歩いていく。
コンパにも参加した。
里香は椅子に深く座り、両手でグラスを持った。
舐めるように飲むそれは手の中で生ぬるくなっていく。
「溶けてる」 男性の長い指がそのグラスの端を掴んだ。
里香は両手に力を込め、声と指の主を見上げた。
「氷が」 青年はたじろぎ気味に言った。「氷を」
要らないと里香が言うより早く、アイストングが横から出てきた。
グラスの中で氷が踊った。
「その方が 薄くなる」 トングを持った手を頬に当てて言った。
髪の短い化粧っけのない女性だった。
彼女を女性に留めるのは、その丸みを帯びた手の甲と短い指だけに思えた。
ひとつ上級だったと思う。美術系学科の生徒だ。
青年は里香のグラスから手を離し、その女性に唇を尖らせた。
「みちるは」と言った。里香は改めて女性を見る。みちる、というのか。
二人は笑った。「名簿で加納みちるを探したって見つからないよ」
加納さんと里香が言うと、女性は「みちるでいい」と言った。
青年は名乗りもせず傍を離れた。
覗うように、里香はその背中とみちるを交互に見た。
笑い返すみちるの目は赤く濁っていた。
時間の経過を里香は知る。
自分はどれだけの間グラスを抱いて座っていたのだろう。
テーブルの上に秩序は残っていなかった。
「ちるちるみちる」とみちるは節をつけて言った。
咄嗟に里香は「ちるちるは誰なんですか」と訊いていた。
笑いが爆発する。
みちるはグラスをテーブルに叩きつけるように置き、身体をふたつに折った。
青年が戻ってきて里香に言った。「君はもう帰りなさい」
どう応じていいのか分からず黙っていると、
里香からグラスを取り上げ、静かにテーブルに置いた。
「送ろう」
首を振り、里香は再び椅子の背に身体を押し付けた。
みちるはその横で笑い続けている。里香はどうしていいか分からない。
そのサークルに里香を誘った同級生が彼女を助け出してくれた。
帰り道、同級生は謝った。「美術系はエキセントリック過ぎるわね」
しかし里香はそのサークルに参加を決めた。
みちるにもう一度会いたかった。



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by officialstar | 2012-06-14 10:11 | 無題
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